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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「絶対的価値妥当の領域:キルケゴールのイデーに寄せて」

 「孔子は、『論語』で「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」という言葉を述べています。キルケゴールも似ていて、「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが必要なのだ。真理とはイデーのために生きること以外のなであろう」と『日記』に書いてあります。」

実存主義者〜キルケゴール ( 哲学 ) - やさしい倫理入門 - Yahoo!ブログ

 

 これは主体的な価値の問題である。そのためだったら死んでもいい、そのためにこそまさに生きたい、この命を使いたいと思えるようなもの、これが価値でなくてなんになるだろうか。

 しかし今、これは決して対象ではないような気がする。なんか違う、ピンとこない。

 

 私にとって、私のこの生にとって、本当に問題なのは何か。哲学は本当に私の問題に答えてくれているだろうか、もしくは私は本当に、自分の真に知りたいことを求めているだろうか。

 私が本当に欲していることは何か。いや、私がこれは真実だとすでに思っていることは何か。

 

 価値判断の問題。自分だけを基準に考えれば、異なる価値判断を持つ他者と対立してしまう。これは他者を殺す独我論である。しかし逆に他者の価値観人それぞれだと、他者を生かす代わりに自分を殺してしまう。これが最近の私であり、また高校での私である。大学生になった時、私はこれを超え、自分を根拠にした生き方をしてきた。私が価値がある、人としてこうすべきだと思ったことはもはや他者の承認なんて関係なかった。そうしていろんなことをして、そして挫折、絶望した。そこからである、他者を根拠に生きようとすることは。これももちろん、全てが間違っていわけではないだろう。しかし、何かがおかしい。私は高校生の頃に逆戻りしている。

 私が価値があると思うことが、しかし、他者の承認を得る必要が、どこにあるのだろうか。私が好きだと、もしくは嫌いだということが、他者に理解される必要が一体どこにあるのだろうか。

 他者に理解される必要があるのは、私と彼の違いが問題として浮き彫りになった時ではないだろうか。いや違う。これも何かを言い当てていない。

 

 自分の生き方は、自分で決めるべきではないだろうか。人に決めてもらうべきではなく、また、社会的価値観に規定されるべきではない。自分で決めたからこそ、これで間違っても構わない、と言えるのではないか。信じるということは。裏切られる覚悟をすることだ。なぜその覚悟ができるか。それだけの納得があるからである。ここに論理はない。論理はないのだ。その感じ、こいつになら裏切られても構わない、これをして将来がダメになっても構わない、それでも俺はこれを信じる、これに賭ける、という時、そこにいかなる論理的理由も存在しない。それは、もう、向こう側からやってくるものである。疑いもなく生じる、これは本物だという確信、これこそが、私の生き方の方向性を決めるのではないだろうか。

 こういう確信、一切のマイネスの懸念を振り払う、それでも構わないという確信、それはつまり安定や安心を振り払い、危険になっても、失敗しても構わない、比喩的に言えば、死んでも構わないというだけの価値的確信、そういうものを感じたことは今までもあった。それは将来に対する決断と、他者への信頼という二つに対して、あったように思える。この領域においては、もはや、論理は関係ない。ただそう感じた、それだけである。それは告げ知らされるのみである。なぜ彼を信じる?そうしたいと思ったからだ。なぜそう思ったのか。これ以上は問えない。なぜそれを決断する?そうしたいと思ったからだ。なぜそれをしたいと思った?もうそれ以上言えない。言えないというのは嘘か、説明はできる。しかしどの一つも、この感じをいいつくすことはできない。

 この感じはなんて表現すればいいだろうか。ああ、こいつなら間違いない、仮に間違えても構わない、という気持ち、この挑戦は逃せない、仮に失敗しても構わない、という気持ち。これを選択することに伴ういかなる弊害も構わない、という気持ち。就活でも感じたんだよなー。あの真剣さ、あの自信に対する敬意、うーん。

 まぁ、うまい表現が思いつかないので、これを「絶対的確信」とでも呼んでおこうか。こういう絶対的確信における価値判断は、他者の承認も、論理的理由も必要ない。それはただ「これは本物だ」という直観的納得としてやってくる。

 これこそ、ではないだろうか。これこそ、求めるべき価値ではないだろうか。だとすると、私にとってのこれはどのような構造だったのかが気になるところである。

 しかしとりあえず言えることは、これは考えて手に入るものではないということだ。これは論理の外側にある。「語りえないもの」である。

 

 さて、とりあえず、こういう領域が存在する。絶対的価値妥当の領域。それは論理的に理解することはできず、ただ了解されるのみである。一方で、論理的に説明できる価値の領域も存在する。それこそまさに、間主観的に構成されるものではないだろうか。

 私の最近の悩みは、自分が価値ありと思っていることは果たして他者にも価値有りなのだろうか、という問題である。しかし、それも別に、いいのではないか。そもそもまず、それは本当に自分にとって価値があるのかどうかを考えているのだろうか。いないだろう。まずはそこからではないだろうか。その文脈の薄さが、私の判断をスカスカなものにしているのではないだろうか。

 

 常に問え。それはお前にとって本質的なものか?本当に価値あるものか?瑣末な問題に拘っているほど人生は長くない。何が瑣末か何が本質かは私が決めることである、なぜならそれは私にとって、だからである。もちろん、私が瑣末だと思った問題に対して、他者が本質的な価値を抱いていることもあるだろう。しかしまずは、私の、私にとっての、本質的な価値を、意味を、考えるべきである。そこでは他者なんて関係ない。恐れもない。一切の不都合も関係ない。それでもなお、そうしたいのであり、それが欲しいのである。本当に大切なことをもっと、もっとつきつめろ。そしてそれは論理的に説明できないものでもある。論理的帰結として得られないものは得る方法は直観である。そういうものを、もっと見つめろ。いや見る思考ではない。聞くのだ。

 

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