【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「ブログとノート」

 一瞬、やっぱ手書きの日記に戻そうかと思ったけど、やっぱやめた。ブログを書くことで、手書きの日記では存在した何かが、なくなっている気がして、やっぱ手書きの日記に戻ろうかとも思ったんだけど、日記を書いてみたら書いてみたで、ブログには存在した何かがなくなった気がして、やめた。

 では、ブログと、ノートでは、何が違う?

 

 まず、他者に見られうるか否か、これが違う。私はこのブログは他者には見られないだろうとは思っている。いやアクセスはあるんだけど、少なくともそこからどうかなるようなものだとは思っていない。と同時に、非公開にしたいとも思っていない。他者の目は、だから、欲しいのだと思う。特定の誰か、ではない、一般化された匿名の他者の目を求めている。この「匿名の他者の視線」の有無は、ブログとノートの大きな違いの一つだろう。

 もう一つ、明らかに違うものがある。スピードである。書くスピードが全然違う。思考とは言語であるとするならば、ノートは私が語ったことを一回聞いてそれから言葉にしているような感じだけど、ブログは語るままに言葉になって行くような感じがする。この速さの違いも、結構大きい。

 すると不思議な逆転現象がある。人に見られるのであれば、むしろ噛みしめるように考えて言葉にすべきなのに、ブログの方が言葉にするのが早い、思考を垂れ流している気がする。いや垂れ流しているは嘘か。少なくとも語るようには考えているわけで。

 

 完全な一人語りかつ、噛みしめるように考える「ノート」と、匿名の他者の視線が存在し語るように考える「ブログ」と。どっちがいいか悪いかは、私の目的によって決まってくる。さて、どちらだろうか。

 

 私はなぜ書くのか。考えたいからである。なぜ考えるのか。答えが知りたいからである。この場合ならまさに、ブログとノートどっちがいいのか知りたいから考えるわけで。では考えるために良いのはどっちか、ということになる。

 これがまたわからないんだよなぁ。ノートの方が何かこう、やっぱじっくり考えられている気がする。しかしブログは早い。

 

 「よく」考えるとはどういうことだろうか。問いには、二つの方向性がある。一つは外的関係に関する問いである。それは本当にそれなのか、という問い。もう一つは、内的関係に関する問い。それをそれならしめているものは何か、である。いや、この区分は違うな。問いに答える方法と、問いを遡る方法と、だろうか。

 「良い生き方とは何か」という問いに、答えようとする方向性と、そもそもその問いの前提になるもの、例えば良い生き方をとう必要性は何か、とかに応えようとする方向性とがある、と言ったところだろうか。

 「ブログとノート、どっちがいいか」に答えるためにはその前提を問わねばならない。すなわち、考えるという目的に照らす必要がある。よく考えることができる媒体を私は選ぶべきである。故に「よく考えるとは何か」という問い出てくる。「よく考えるとは何か」に答えることが「ブログとノート、どっちがいいか」にも答えることになるし、「ブログとノート、どっちがいいか」という問いは「よく考えるとは何か」という問いの存在理由になっている。

 「よく考えるとは何か」、しかしそれは目的に対してより有意義な方法を提出するための思考、ということにはならないだろうか。いや、推測が雑だ、やめよう。

 

 そもそも考える、とは何か。

 それは意味を見出す、構成する、文脈化する、ということな気がする。少なくとも論理だけではない。論理だけで考えるのはもうやめよう。血の通った論理を思考としよう。するとよく考えるというのはより良い文脈化=血の通った論理を意味する。では「良い」とは何か、それは価値である。価値ある文脈化ということになる。

 価値を決めるのは私の欲望である。価値にも色々あるが、私にとって本質的な欲望に答えることが最も価値がある。

 すると「よく考える」ということは、私が知りたいことについて、血の通った論理のもので文脈化すること、ということになる。これはブログでもノートでもできるんじゃないか・・・?

 

 うーん。よくわからんけど、とりあえず、やっぱブログにしておこう。もしくはたまに紙に書いてみよう。何かが違う。でもやっぱ、ブログは早いけど、思考が薄い気はする。濃いのはノートの方な気がする。すると、たくさん考えたいならブログ、深く考えたいならノート、ということになる?うーん・・・。

 こういうのは、まさに根拠をどこに置くんですか、という話。論理で片付けられる問題ではない、論理上はなんとでも言えるからである。

 

 うーん・・・。

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