【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

主体的真理(byキルケゴール)が見つからない理由

 思考する、という時、その主体は誰か。私である。私が、思考するのである。つまり私の状態に、思考は左右される。思考とは意味を連ねていくことである。言葉によって、である。意味とは自分の情動と密接に関わる。物悲しい時、世界は物悲しさの意味に包まれる。思考もまた同様である。

 思考と感情の関係を論じた自己啓発本に、『リチャード・カールソンの楽天主義セラピー』というものがある。

 

リチャード・カールソンの楽天主義セラピー

リチャード・カールソンの楽天主義セラピー

 

  暗い感情の時は暗いことを考える。暗いことを考えるから暗い感情になる。こうして思考と感情は相互作用してしまう。

 私は今日のスタートを暗い気持ちで始めてしまった。生きる道筋がわからなくなる、「わからない」という感情に囚われる時によく起こることである。問題は「わからない」ことなのだから、わかるために思考する。そして思考するほどわからないので、気持ちが沈んでいく。こうして思考と感情の悪循環に陥る。

 なぜわからないのか。実は、論理を積み上げてはいるのだ。しかしある命題Aとある命題Bがあるとする時、その優劣を決めるものは論理だけでは、ない。それに対していいね!と決めるのは納得の心、心的実感だったりする。しかしその心が暗い状態になっているのである。必然、わかりはしない。答えは出ない。

 特に今回は自分の人生について考えたことだった。いかに生きるか、という問いだった。しかしいかに生きるかは、いかに生きたいか、ということであり、「生きたい生き方」か否かを決めることは私の心的納得である。その心が麻痺している以上、答えは出ない。それいいね!こそが答えの根拠なのだから。

 これが私の生に関することではなくて、何か対象に関することだったら話は別である。客観的な対象に関してのことならば、私の主観的な心情は関係ない。しかしそういう学問とか、対象に関してではなく、私の生き方、極めて主観的な領域に関することは、客観的な言葉では到達できないのである。それはまさにこの「私」に関すること、という意味では、実存的問いといえるかもしれない。実存的は、情動的根拠こそが重要なのだろう。

 なのであればこそ、心が苦しい、答えが出なくて苦しい、その果てに心が麻痺してしまう時、自分の生き方を考えるべきではない。まず真っ先にすることは、その心の状態をなんとかすること、苦しみを解消することである。感情が思考に密接に関わるなら答えは一つ、別のことに思考を向けることである。

 

 そして今日それにうまく成功し、また私のやりたい生き方も一つわかった。私の原点には、対話に対する興味がある。自分とは全く異なる異質な他者と、対話を通してわかり合うこと、それを通して私にはなかった意見に、世界観にめぐり合うこと。それが私の楽しさとしてある。私の人生には「対話」というキーワードが欠かせない。

 そうすると、いかにすればこの対話を楽しくできるか、ということになる。これはまた、今度考えよう。

 

 この「対話」という結論も、過去を思い出して、その時の面白さを思い出して、である。でも心が暗い時は、その「面白さ」が思い出せないのである。イメージとしても、意味としても思い出せても、その「面白さ」という「感情」が思い出せないのである。私はいかに生きるかという問いに対して答えられる、キルケゴールの言う所の、「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそれのために生き、そして死にたいと思うようなイデー(理念)を発見することが肝要」というやつである。この言葉、好きだなー。

 このような理念は、決して学問からは出てこない。客観的真理=間主観的真理からは出てこない。それは主観的真理である。主観的真理の価値妥当は、間主観性ではないのであれば、反復妥当性となる。つまり自分が何度思い返してもそれが正しいと思えるような真理、ということになる。それは過去から今までの私の感情的経験が教えてくれる。それは欲望の反復ということ。感情の反復ということ。みんなが正しいというかどうか、ではなく、私が正しいと感じるかどうか、感じたかどうか、である。そのためには私にその理念命題を正しいと感じるだけの心がなければならない。しかし心が麻痺していたらそれもできない。

 だからこそ、心を、感情を、ダメにしてはならない。鬱っぽくなってはならない。生きる意味がない=理念がないから、鬱っぽくなるのではない。鬱っぽいから、生きる理念が見つからないのである。理念の理念たる根拠としての心がうつ状態によって麻痺しているから、である。

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