【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「仕事の目的、対象、手段、結果」

 なぜ、仕事をするのか。これに答えられないと、自分の仕事を考えることはできない気がする。そしてやっと、自分なりの答えに、すこーし近づけた気がする。

 なぜ、仕事をするのか。人によって様々な答えがあるはずである。ほとんどの人は、お金のため、生活のためだろう。自己実現のためだという人は大手に行ってもベンチャーに行ってもバリバリ働くのだろう。お金の安定の人は安定した職についてのんびりと働くのだろう。

 しかし、仕事とは、そもそもなんだろうか、と考える。例えば、読書は仕事かといえば、仕事ではない。子供は遊ぶのが仕事という。しかしこれもやっぱり、仕事ではない気がする。勉強するのは学生の仕事、ということも、あるかもしれない。しかしこれもやっぱり仕事ではない。

 何が違うのか。仕事は、お金をもらうのである。仕事は自分がしたことに対して報酬をもらうのである。これが他のことと、仕事の違いだ。読書をしても、勉強をしても、お金はもらえない。ではなぜ、お金をもらえないのか。

 読書や仕事は、誰かのためになっているわけではないからである。誰かの何かを満たして、満足させているわけではないからである。つまり仕事とは、誰かを満足させること、なのである。そうでなければお金が支払われるはずがない。

 つまり、お金をもらうという目的のために、誰かの何かを満たすという手段がある。しかし、私はお金のためにいきたいとは、正直あまり思えない。自分のために働きたいとはあまり思えないのである。

 自分のために働きたいと思うから、できるだけ楽で、短くて、高い金をもらおうとするのではないだろうか。しかしそういう浅はかさから、良い仕事も、良い報酬も、ついてこない気がするのである。こういうことは往往にしてある。それを求めることでそれが遠ざかるという不思議な原則である。

 これは道徳に対しても、同じことが言えると個人的には思っている。勇気のある人になりたいという目的の元、何かをする人間は、勇気のある人にはなれない気がするのである。なぜか。勇気のある人は、勇気が欲しいと思って、勇気ある行動をとるわけではないからである。その人はその行動をとる別の動機があって、その結果勇気がある人になったのである。

 目的があって、手段なのではない。お金が稼ぎたいといって、そのために誰かを満足させるのではないのである。この手段を、目的に変えて、目的を結果に変えるべきではないかと思う。つまり、誰かの満足を叶えたいという目的に沿った行動をとった結果としての報酬である。お金は、求めるべきものではない。道徳と同じように。

 

 だとすれば、なぜ仕事をするかははっきりする。仕事とは誰かを満足させることであり、それが目的である。それはつまり相手の幸せを考えるということであり、それは優しさであり、愛ではないだろうか。私はなぜ仕事をするのか、それは誰かに幸せになって欲しいからである。そしてその結果として、仕事や、優しいという評価、愛がついてくるのではないだろうか。

 私自身、優しい人間に、誰かをちゃんと愛せる人間になりたいと思っている。ただこの論法を踏まえる限り、優しい人になりたいと思うことは間違っているわけで。それは目的ではなく結果である。では目的は何かというなら、やはり相手の幸せを考える、この一言に尽きるのではないか。もう、ただこれだけである。

 火事に見舞われた家屋、中には幼い子供。母親は、自らの命も顧みず中に入り、無事子供を救出したとする。母親は、勇気があり、優しい、という評価を受けるかもしれない。しかしそれは外から見た評価で、母親の子供に対するアクションへの評価であり、母親はまさか、勇気があって優しい母親になりたいとの一心で家屋の中に突っ込んだわけではないだろう。ただただ、子供を助けたい一心だったはずである。こういうこと。徹底的な利他主義。それこそが目的であり、一切の道徳と、物理的報酬は、その結果に過ぎない。お金が欲しい、評価が欲しい、そういう人は、そういう人にはなれない気がするのである。いや、嘘ついた。なれる人もいるだろう。でも私は無理。

 

 昔、後ろめたい仕事をしていた時がある。自分が自信をもてない商品を売っていたことがある。当時関わっていた会社には、その商品の価値は私が決めるのではなく、相手が決めることだと言われていた。だから、私も、私が間違っているのだと思っていた。しかし、やはり今でも私はこの考え方に賛同できない。相手が満足するならどんな粗悪な商品も売っていいとは思わない。どう考えても相手の幸せを考えたらこれじゃないだろ、というような商品を売っていいはずがない。そこには利他の考えがない。私は自分のために仕事をし、この人のことを考えたらこれじゃないと思いながら、嘘をつきながら仕事をし、相手を騙しているという罪悪感の中仕事をし、そしてメンタル崩壊。約半年弱引きこもりになった。

 もう二度と、こういう後ろめたい仕事の仕方はしたくない。相手のことを、徹底的に考えに考え抜いたものを、提供したいと私は思う。確かに商品の価値は相手が決めるのだ。こう言っちゃうとあれだけど、バカがただ暇つぶしをしたいだけのサービスも、その需要がある限り売れるわけで。結局仕事とは相手の欲望を満たしたもの勝ちだから。それだけが価値だから。

 だが私はこういう仕事の仕方をしたくはない。どうせ仕事をするなら、この世界に本当に必要だと思うことを、提供したい。相手の立場にとことん立って、問題を解決したいと考える。相手の幸せを願って、自分の仕事に誇りが持てるような、そんな仕事がしたいのである。お金がもらえればなんでもいいなんて、私には思えない。これが私が自分の仕事に求める、やりがいである。

 徹底的に利他的になれるか。大企業だと難しいかもしれない。なぜならそこでは私は歯車になるからだ。相手の仕事に、私はどこまで責任を取れるだろうか。かなり怪しい。よって大企業は嫌だ。全体の一部になるような仕事はしたくない。相手の幸福に責任を負える仕事がしたい、それを感じることができる仕事がしたい。こう考えると、能力次第ではあるが、ベンチャーということになる。

 そして自分の仕事の意義も考えたい。どうでもいいような、ただ欲望を満たすだけのサービスではなく、意義が欲しい。

 正直今考えているのは、教育業界向けシステムコンサルタント、である。なぜなら、ITが進むといっても、人と人のアナログなつながりは絶対にデジタル化されないし、そのデジタル化できないつながりが教育には特に重要だと考えるから、しかし教育現場においては事務作業の多さがよく問題視されていて、そういう業務の効率化が、教師と生徒の関わりを密にし、また授業設計や研修を行いことができる時間をまかなうことができるからである。こういう仕事がしたい。こういう、意義のある仕事がしたいのである。

 

 相手の幸せを考えること。その上で、評価や報酬は決まってくる。相手の幸せが「目的」であって、報酬や評価は「結果」でしかない。そして、いかに幸せにするかという、目的に対する「手段」が、自分に合っているか。また誰を幸せにしたいかという「対象」が、私が意義を感じるようなことだろうか。対象、目的、手段、そして結果。これをもっと考えたいな。