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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「変な人、語り合いたい人向けの居場所支援って、面白そう」

 仕事の目的は、他者の幸福のためである、ということを書いた。そして、仕事の対象、方法、結果も考える必要がある、と。

 しかしその前に。「幸せ」とは一体、なんだろうか。いやー実にでかい話である。でもこれを考えないと、「他者の幸福」も考えることはできないだろう。

 

 ルソーは『エミール』の中で、不幸とは欲望と能力の不均衡だと言っている。欲するものが手に入らない、やりたいことができない、これが不幸である。これは逆に言えば、欲望と能力が一致していることが、幸福だということになる。

 しかし確かにそれは、幸福の定義としてはある程度の妥当性を持っているかもしれないけども、仕事を通しての他者貢献の視点から考えれば、何も言っていないに等しい。全ての仕事はこの幸福に当てはまるからである。アフリカの子供達に腹一杯の飯を、という仕事も、時間を持て余した大学生にただ面白いだけの娯楽を、という仕事も、全てこの図式に当てはまる。

 ということは、幸福の中にもいろんな種類がある、ということになる。そしてそれは欲望の種類に対応していると考えることができるだろう。

 

 無論、最も根源的で、故に不幸の度合いが大きいものは、食べることができない、安心して生活ができないという、生理的欲求であるだろう。しかし、私は、例えば昔の村社会において、食べ物は貧しくても一家団欒であった頃、という風景に、どうしても憧憬を感じてしまう。

 アフリカにいた時も、彼らはどう考えても貧しく、経済的にも困窮しているのに、それでも近所の人らと楽しく、笑いながら暮らしていた。ボロを着て、毎日芋しか食べられないのに、それでも笑っていた。

 故に私はこう考える。人間が生きる上でもっとも必要なのは、人であり、居場所である。貧困は人を殺すだろう。しかし同じように、孤独もまた、人を殺すのではないだろうか。

 つまり「幸福」とは、「孤独ではない」ということ、誰かと心の繋がりがあること、居場所があること、ではないだろうか。これさえあれば、多少貧しくても、人は生きていけるのではないだろうか。

 

 どう考えると、私は仕事によって他者を幸福にしたい、そしてその幸福とは居場所の提供ということになる。一人でも多くの人間が孤独から解放されるように、そういう社会を作りたいと考える。これが私の考える仕事の「内容」である。まだ方法ではない。なぜなら例えば、居場所としての何かしらの施設、の清掃員になるならば、内容は居場所支援でも、方法は清掃ということになるからである。

 もしくは、である。居場所がないということは、何か別の問題があると考えることができる。繋がろうと思えば誰とでも繋がることができるのが現在のネット社会である。このつながりの機会があるにも関わらず孤独であるということはどういうことだろうか。繋がれれば誰でもいいというわけではないということである。友達にしても、全ての人間と友達になれるわけではないのだから。例えば趣味や考え方が似ている人が友達になりやすいのであって。と考えると、居場所とは、ある属性を持った特定の集団において作ることができる、ということになる。それは例えば、同じバンドを好きな人が集まったオフ会とか、会社の中の同期とか、である。類が友を呼べば居場所になる、ということである。

 ということは、孤独を感じている人間とは、類は友を呼べない人間、社会のスタンダードの価値観から外れてしまっている人間、つまり「変な人」である。「変な人」だけを集めた居場所を考えるというのも、なかなか面白いとは思う。私の知っている範囲では二人これをやってる人がいたな。いや3人か。

 

 もう一つある。さらっと浅い関係は作れるけど、深い関係は作れないという人間である。この人も、友達の数に関わらず、心は孤独だろう。本気で語り合うことができる場の提供が、こういう人には必要なのではないだろうか。

 もしも孤独が嫌だという人がいるとすれば、このような人らになるだろう。「本気で語り合える関係が欲しいけど、怖い」という人と、「なぜか周りで浮いてしまって一人になりがち」という人。こういう人らに向けた居場所支援が、面白そうだなぁ。

 

 いやでも、これは就活に使えるものではないな。うーん、なかなか魅力的なんだけどなぁ。きっと変な奴ばっか集まって、深い話がたくさんできる気がするんだけどなぁ。

 これが就活で使えないなら、また別の「幸せ」を考えなければならない。もしくはそれを限定しなくていいかもしれない。「幸せ」の対象を限定しなくても、幸せにする「方法」から絞っていくことも考えられるだろう。

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