【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「なぜ仕事の意味を考える必要があるのか」

 就活の一次面接で、担当官の方にお勧めしていただいた本を読んだ。田坂広志さんの『仕事の思想』である。

 

仕事の思想―なぜ我々は働くのか (PHP文庫)

仕事の思想―なぜ我々は働くのか (PHP文庫)

 

 

 色々と、考えさせられた。でも正直、ん?と思うこともあって。ちょっと感想を書いてみたい。

 

 まずは、仕事の目的、結果、手段について考えたい。これについて前に自分で考えたからである。

 

kizito.hatenablog.com

 

 本著では、仕事の報酬は、成長であるという。そしてその成長とは、人間としての成長、つまり「人間力」の向上であると。

 まず「仕事の報酬」は、仕事の「結果」であるという点を、ちゃんと理解しなければならないのではないか。結果は結果であって、仕事の「目的」では、ない。ある目的のもと仕事をして、その結果得られるものが、お金や、成長なのではないか。では仕事の目的、なぜ仕事をするのか、の問いに答えうるものは何だろうか。

 それはやはり、人のため、誰かのため、ということの尽きるような気がする。こういうと、利他主義にならねばならないような気もするけど、実はそうでもないというか。また別で書くけど、利己主義を徹底的に突き詰めた先に利他主義があるというか、利己と利他は極限のところで一致するような気がするのである。まぁこれはまた今度。

 仕事の目的は、その仕事の内容にもよるけど、その仕事の内容が何であれ、突き詰めれば人のためである。誰かのためになるから、その仕事には価値がある。価値は人間が、私以外の人間が決めることである。私以外の誰かのためになる、この仕事をすることによって、私以外の誰から、これをするより前と比べて、少しだけでも幸福になる、これが仕事の目的である。

 目的が「人のため」である以上、人のことを考えなければならないのはいうまでもない。故にこの過程で、「人間力」が磨かれていくのではないだろうか。本当に人のために仕事をする人間こそが、自らの人間としての能力も磨いていく。

 またこの「人間力」という成長は、同時に目的に対する手段でもありうる。人のためにという目的の達成のためには、人間力が手段として必要だからである。

 以上まとめると、仕事の目的は人のため、その結果身に付けるものは人間力、またその目的を達成するための手段も人間力、ということになる。

 

 しかし本当に、仕事の目的は人のため、なのだろうか。私はこの問いで、何を求めているのだろうか。

 これから仕事をする中で、辛いこと、理不尽なこと、苦しいこと、いくらでも出てくるだろう。しかし、簡単にはドロップアウトすることはできない。私は精神的苦痛から引きこもりになった経験のある人間である。根性だけでは、苦しみを乗り越えることはできない。

 苦しみのうちにあってなおそれをするとき、必要なものは何か。それは、「意味」である。辛くても苦しくても痛くてもなお、それをする意味とは何か。この問いに答えることができなければ、辛さを乗り越えることができないように思う。

 これは仕事に限った話ではない。生きることもそうだし、学生にとっては勉強することもそうである。この問いについてちょっと考える。

 

 生きる意味とは何か、青臭く、また人によってはあまりにも切実なこの問いを、私も考えたことがある。何度もある。しかし、答えはなかなか見つからなかった。しかしある日、「生きる意味とは何か」と問うことの意味を、考えたことがある。

 勉強も同じだが、もしそれをやっていることが楽しければ、わざわざ勉強をする意味なんて考えない気がするのである。同じように、生きることが楽しければ、わざわざ生きる意味なんて考える必要はない。つまり、意味を問うのは、苦しいからである。苦しさを乗り越えるために、我々は意味を問うのである。意味のない苦しみに、我々は耐えることができない。

 しかし、意味なんて簡単に見つからない以上、意味をということの前提を改善すれば、つまり生きることを楽しめば、勉強することを楽しめば、そもそも意味なんて考えなくてもいいのではないか、と思った。生きることの意味を問うことで、私は苦しみに耐えたかったのである。苦しみをなんとかしたいということが目的なのであれば、そのための手段は意味を発見すること、だけではなく、それを楽しむということも含むはずである。故に、楽しめばいい、ということが私の生きる指針になった。

 

 が、しかし。生きるということは、どう考えても、楽しいことばかりのはずはないのである。楽しむことは必要である。しかし、いつでもどこでも、楽しむことができるかと言われると、これがなかなか難しい。何より、楽しみというのは、先の話の中では「結果」に属することではないだろうか。成長、これは、楽しさである。この楽しさがあれば、苦しみの中にあっても、その苦しみを成長の糧として、楽しむことができるはずである。その感覚はわかる。しかし苦しみが大きくなった時、成長することの喜びも感じれなくなった時、なんでこんな苦しい思いをしてまで成長しなければならないのか、なんでこんな痛い思いをして仕事をしなければならないのかとは、考えないだろうか。成長の意味もまた、問われるのである。楽しければ、苦しみを乗り越えられる、これは正解である。しかし苦しみもまた、楽しさを超えてくるのではないか。

 楽しさ、これは生きることの、仕事の、報酬である。確かに強い報酬であるので、苦しみを乗り越えるための武器にはなる。楽しもうという意志は、何をするにしても、必要なことである。しかしこれはやはり、結果であり、手段である。生きた結果、楽しいのであり、生きるためには、楽しまねばならない、しかしなぜ生きるのかの答えには、ならないのではないか。仕事も、同じくである。

 

 いや、しかしこう考えてみる。仕事が振られる。それは同僚を助けるための仕事だか、内容はただの作業であり、全く自分が成長するような要素はどこにもない。私はこの仕事に、同僚のためという意味を見出せるだろう。しかし単純作業を続けさせられる苦しさに、耐えられるだろうか。

 結果は、結果である。しかし目的と結果を問う中で、私は目的に重きをおき、結果はそこまで重要なものではないと、決めつけてはいないだろうか。結果は、当たり前だが重要である。どれだけ人のためとはいえお金もなく重労働を長時間続けられるはずはない。人が生きるためには、仕事には、目的も結果も、共に必要なのだ。

 こう考えると、目的と結果をわざわざ分ける意味も、よくわからなくなってくる。なぜ仕事をするのか、成長のためである、これは全然、問題ない表現である。その仕事によって得られるもののために仕事をする、これは、目的といってもいいのではないか。

 結果と目的があるのではなくて、利他的目的と利己的目的がある、ということではないだろうか。んんーごちゃごちゃしてきたぞ?

 

 まとめよう。

 仕事の結果に成長の喜びがあり、仕事の目的に他者のため、というものがある。目的を問うのは意味を問うからであり、意味を問うのは苦しさに耐えるためにである。しかし苦しさに耐えることを考えれば、成長の喜びも、誰かのためも、どちらもなくてはならないものである。ならばどちらも目的でいいのではないか。むしろ目的と結果ではなく、利己的目的が利他的目的の違い、ではないか。

 

 ちょっと長くなったので、また次の記事に。