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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「生きる意味と、逃げることについて」

 本を読むことをインプットとして、考えることをアウトプットとして、人と対話することをインとアウトの両方だとして。最近アウトプットが多すぎるというのが課題。この課題認識から導かれる帰結は、インプットを増やすこと、である。

 しかし、そもそもなんでインプットやアウトプットが最適な基準で必要、なのだろうか。そこを考えた時に、考えること、読書、人との対話、これらが問いに答えるためのものである、ということが見えてくる。

 問いがあるから、その答えを知りたくて、考えるし、本を読むし、人と対話するのである。しかし果たしてそうだろうか。こういう風に書くと、問いの答えを得ることが目的で、これらはそのための手段のような気もしてくるが、そうではなくて、考えること自体の楽しさ、読書、対話自体の楽しさこそが目的であって、問いの答えはその結果ではないだろうか。よりこれらの方法を楽しむために問いを精錬させる。問いが成熟していればいるほど、知的生活は楽しくなる。だとすれば、この楽しさこそが目的であって、問うことはこの楽しさを最大化させるための手段であり、思考、読書、対話もまたこの楽しさを得るための手段である。とすれば、楽しければいいということになるのだろうか。

 しかしでは、楽しいとはなんだ。楽しさは、目的ではなく、問いを満たしたことによる結果ではないのだろうか。食べ物を食べると満足する。しかし我々は満足のために食べるのではなく、生きるために食べている。目的は生きることであり、満足はそのための結果である。これと同じように、問いに答えることが目的であり、楽しさはその結果ではないだろうか。

 何より、楽しさを生きる目的にすることは、良いこととは言えない。なぜなら人生は楽しいことばかりではないからである。楽しさ=目的=意味だとするならば、楽しくないことは無意味になってしまう。それは目の前のことから逃げる口実になってしまうだろう。

 逃げられる状況ならまだいい。逃げられない時は?楽しくない、苦しい、しかし逃げられない。楽しくないのだから意味はない。しかし逃げられない。人間はこの苦痛には簡単には耐えられない。逃げてはいけない時も同様である。逃げてはいけない苦しみに意味を見出せず逃げることによる、罪悪感。そういうのはもうこりごりである。

 

 ただ生きるためには、生きる意味も、目的も、問いも必要ない。極論、食べて寝てればいいのである。しかしよく生きようとするならば、この問いを避けることはできない。しかしよく生きるという時の、「よく」の意味も、またわからない。

 

 ソクラテスプラトンの著作に、『ゴルギアス』というものがある。

ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)

 

  この著作の中で、良い=善とは何かという問答が、ソクラテスと、カリクレスの間で交わされている。

 カリクレスは先の私の議論のように、楽しさこそが善である、欲望の満足こそが善であるという立場に立つ一方、ソクラテスは死後の世界を想定した上で、そうではないと語る。

 細かな詳細は忘れているのでなんとも言えないが、私はどちらともに説得力を感じながら、しかしどちらともに賛同しきれない。

 

 楽しさは十分、生きる意味になりうる。しかし逃げてはならない時、逃げられない時に、その物語は効力を発揮しきれない。ということは、楽しい、嬉しい、満足、という、私個人の感情的満足だけでは、生きる理由になりきれないということではないか。私の心の快不快とは別のところに、生きる意味はあるということだろうか。苦しかろうが、楽しかろうが、生きることの理由には関係ない、ということだろうか。

 それはつまり、私の生きる理由は、私の外側にある、ということになるのではないだろうか。いや、待て、話が早すぎる。

 

 「逃げてはならない時」「逃げられない時」とは何か。楽しさ、満足が生きる意味なら、それがない時は、私にそれをする意味がない。だったら早々にそこから撤退してしかるべきではないだろうか。しかし撤退できない、撤退してはならない時がある。それは何か。

 逃げられない、ということで考えるなら、フランクルの『夜と霧』を思い出す。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

  まさに逃げられない状況の中で彼は、なぜ生きるのかを人生に問うのではなく、我々が人生から問われている、という境地に至った。意味があるのか?と問うのではなく、意味をお前は見つけることができるか?と問われているのだと。しかしこれもまた、私にはどうも承諾し難いものである。確かにそう信じることができれば、これは力ある物語である。しかし、問われているという時、私に問うものは誰か。神か?しかし私は無神論者である。

 このような特殊例を除けば、我々の人生で本当に逃げられないということは、ない。多くの場合、それは勘違いである。もちろん、勘違いという言葉で表現する以上に、この勘違いはかなり深刻で、時に人を自死に追い詰めるだけの力のある勘違いなわけだが。例えば学校でのいじめ。逃げることはできる。いや、どうだろうか。なぜ逃げることができないのか。それは子供が、親を心配するから、だろうか。誰かに知られたくないから、だろうか。

 離婚に踏み切れない夫婦もまた、逃げない。それはなぜか。それはそれまで築いてきた時間を否定したくないからではないだろうか。

 逃げてはならない時も同様である。逃げてはならないのは、逃げることで失う何かがあるからである。それはそれまでの自分の努力や誇りかもしれない。もしくは家族かもしれない。

 

 それまでの人生において築いてきたもの、もしくは自分と周りとの関わり、これらを考慮しなければ、逃げられないというのはなかなか考えられない。物理的に拘束されている状況を除けば。人が精神的に逃げられないのは、過去の否定への困難もしくは望む未来の放棄への困難、そして自分以外の他者との関わりの中に、その原因があるように思う。これらが複雑に絡み合って、「逃げられない」という幻想を抱いてしまっているのではないだろうか。しかし時間と関係を度外視すれば、精神的には、何度もいうが、逃げられないということはない。

 

 ここで二つの観点が現れている。「時間」と、「人間関係」である。この二点以外に、人間が精神的に苦しい時に、逃げられない、逃げてはならないと思う理由となるものはあるだろうか。身体的拘束は確かに無理。劣悪な家庭における子供は?彼はその家庭が世界だと思っている。それは、無知である、ということだろう。知、とは精神的世界の地平である。多くを知るものは、それだけ広く深い精神世界を持つ。知らないということもまた、人を逃さない要因になるだろう。

 時間的自己における自己幻想の解体、人の間としての自己における自己幻想の解体、無知であることの自覚と知ることへの志向、これらが、問題解決の方法としては必要だろう。他にはないか?

 

 話がごっちゃになってきた。まとめる。

楽しいという感情的満足だけでは生きる意味になり得ないのではないか

なぜなら楽しくなくても逃げられない状況があり、意味なき苦痛に人は耐えられない

なぜ逃げられないか

時間的自己、関係的自己の幻想、無知による

 

ということは、これらの解決によって得られるものは、「逃げていい理由」である。私はこの苦しみから逃げることができない、しかもこの苦しみを受ける理由もない、これでは生きていられない。よって幻想を解体し、「逃げていい」理由を見つけること、これが大事である。

 が、しかし。逃げてはならない理由もまた、あるのではないだろうか。ほとんどの物事は逃げても問題はないが、そうやって苦しかったら逃げる、みたいな生き方が本当に豊かな生き方、だろうか。面倒があれば逃げ、嫌いな人がいれば逃げ、無理と思ったら逃げる。「逃げられない状況」というのは、あまりない。あまり、である。特にまだ成人してない人にとってはこの限りではない。我々は、望む望まずに関係なく、そのように生まれ、その環境で生きる他ないというのが、人生の前半だからである。しかしそれも厳密には、逃げられないわけではない。

 「逃げられない状況」が存在しなくとも、「逃げてはならない状況」は存在するように思える。そしてその状況とは、ただ生きる人にとってのものではなく、よく生きる人にとってのものであるのではないか。

 

楽しいという感情的満足だけでは生きる意味になり得ない

なぜなら楽しくなくても逃げられない状況があり、意味なき苦痛に人は耐えられない

ではなぜ逃げられないか

時間的自己、関係的自己の幻想、無知による勘違い

勘違いを解ければ、「逃げられない」ということはない

しかしなお、「逃げてはならない」状況はある

 

 逃げてはならない、も、そうだし、逃げたくはない、もそうだろう。

 ここあたりぐらいで。また別日に考えよう。逃げられない、逃げてはならない、逃げたくない、これらが、苦しみを苦しみのまま受ける理由になる。そしておそらく、その理由が生きることの楽しみもまた包括するとき、それは、苦しみを耐える理由でありながら、楽しみを享受する理由でもあり、すなわち生きる理由となるのではないだろうか。

 

結局、インプットとアウトプットの話はどこに行ったんだ・・・。

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