読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「生きる意味 再考」

 続・生きる意味を、考える。

 

kizito.hatenablog.com

 

楽しいという感情的満足だけでは生きる意味になり得ない

なぜなら楽しくなくても逃げられない状況があり、意味なき苦痛に人は耐えられない

ではなぜ逃げられないか

時間的自己、関係的自己の幻想、無知による勘違い

勘違いを解ければ、「逃げられない」ということはない

しかしなお、「逃げてはならない」状況はある

 

前回、こう書いた。しかしさらに考えてみる。

 

 まず、「楽しいという感情的満足だけでは生きる意味になり得ない」というのは、嘘である。なり得る。なり得る上で、苦しみを乗り越えるだけのものにはならない場合もあるだろう、ということ。またこの「楽しい」の理由にもよる。例えば馴れ合いの楽しさと、成長の楽しさでは全然、楽しいの意味が違う。

 というか、もっと根っこから考えよう。この話は、生きる意味は何か?という問いになるが、それは生きる意味が存在することを前提にしている。よって、生きる意味があるのかないのか、というところから考えたい。

 

 まず結論として、生きる意味は、ない、と考える。もっと言えば、生きることそのものに意味はないと考える。なぜか。

 意味がないということにも二つのレベルがあるようにも思う。

 まず、ここにペンがあるとする。このペンそのものには意味はない。このペンを使わず、何も書かず、インクも出ないペンには、意味がないと言えるだろう。ペンに限らず、座れない椅子、水を注げないコップにも意味はない。

 ここから言えることは、意味とはそれそのものに宿るのではなく、それの使い道、それと世界との関係性の中にある、ということである。同じように考えるなら、生きることそのものも、意味はない。ただ飯を食って寝るだけの人生に意味は感じにくい。なぜならそこには命を保存することだけがあり、その命を外の何かに対して使うということがないからである。

 もう一つのレベルでの意味がない、というのは、例えばペンを「ペン」と呼ぶ時、この名前には意味がある。名をつけることで我々は世界を分節化して認識している。しかしこれは、人間が勝手に名付けた名前であり、意味である。人間の理性から離れたところから見るなら、本来はこのような名前は存在しない。この感覚は難しいけど、或る日突然、一切の世界のものが、「それ」としか言えないようなものになることがある。これは今読んでいるところだけど、カミュの『シーシュポスの神話』という哲学書で展開される、不条理のことを意味する。

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 

 

 この意味がない、は、名前がない、言語がない、ということである。故にこの意味のなさは、感覚で感じるだけで、言葉にして説明することはできない。説明した瞬間、言語が、つまり名前という意味が入り込むからである。

 

 ここまで考えると、次のことがわかる

 まず、我々は言語を語ることで名付け、意味づけすることができる存在である。世界にラベリングをすることができる存在である。世界に元々意味はないのかもしれないけど、我々は意味を作り、つまり言葉を作り、世界を語ってきたのである。これが一点。

 次に、そうやって名付けられたという「意味」と、その名付けられたものの使い道というレベルの意味は違う。ペンは使うことでその意味を得るように、我々もこの命をいかに使うかによって、命の意味は、生きる意味は変わってくるのではないだろうか。

 故に、ただ生きることに意味はない。しかしいかに生きるかと問うとき、そこに初めて意味が生まれてくるのである。このレベルにおいても、意味とは、作られるものであると言えるだろう。

 

 よって生きる意味はあるのか。ない。けど、作れる。

 そしてペンの意味は書く機能であるが、命の意味は、つまり使い道は、無限の可能性がある。故に、生きる意味を確定することは難しい。

 

 意味を考える上でのもう一つの観点。「欲望関心相関性」である。これは竹田青嗣さんが言っている理論で、意味や価値とは欲望や関心に相関する、というものである。

 この観点で考えるなら、私の命の使い方の意味は、私が自分の命、時間、人生を、どのように使いたいのか=いかに生きたいのか、いかなる人間になりたいのか、ということに相関するだろう。

 

 しかしまた、私の命をこのように対象化するのは、私だけではない。他者も同様である。他者もまた、私の命を対象化し、私の命に意味を、価値を与える存在ではないだろうか。

 人は誰かの欲望や関心の対象になることを欲する。それによって自分の意味を確認することができるからである。もしくはもっと広く、社会から求められる、という形での意味を求める。欲望の対象になることで、自らの存在意義を確定する。

 これが、居場所感覚とかにつながっていくのだろう。

 

 しかし、まだスッキリしない。例えば自分の命のために自分の命を使う、というのはどうだろうか。もっと言えば、自分の感情的満足のために自分の時間を使う、ということである。これは娯楽とかはそういうことになるだろう。

 んーでもここにあるのは、感情的な満足、楽しさであって、意味ではないなぁ。でも楽しい時間を得るために生きる、というのは十分、生きる意味な気がする。楽しみたいという欲望のために命を使うのだから。

 他者の欲望の対象になるということにも色々ある。先日読んだ高史明さんの『生きることの意味』では、優しさこそが意味であった。

生きることの意味―ある少年のおいたち (ちくま文庫)

生きることの意味―ある少年のおいたち (ちくま文庫)

 

 

 欲望の対象になる、と言っても、本当にお前の幸せを考える、という優しさの対象になる、ということもある。逆に、ただ駒のように使われる、という意味での、求められ方というのもある。私でなければならないという深みにおいて、実存において、誰かに求められるというのは、大きな意味になるだろう。

 だとすれば逆に、誰かのために生きることは、なぜ意味となるのか。それは誰かに意味を与える行為であって、自分が与えられるような行為ではない。誰かのために命を使っているからか。優しさという、相手に意味を与えるという大きな仕事に、自分の命を使うことの意味。

 

 誰かが私を求めてくれるという意味。私が誰かを求めることに「私」を使うことによる意味。

 

 では成長はどうだろうか。田坂さんは仕事の報酬を成長と言っている。これは意味になるのか。

 

 あーやばい。さっぱりわからない。どうしても整合的な理論にはならない気がするんだよなー。

 ただ、論理的に意味を説明することと、確実に意味を感じることは違う。意味があることと、意味を実感することは違う。もしも意味というものが人間が作り出すもので、それは名前でもあるけど、同時に関係でもあるなら、つまり意味とはコンテクストにあるのであるならば、それをより実感できる方が豊かな楽しい人生になるのではないだろうか。私に足りないのは、この意味の文脈の構成力と言えるだろう。

 意味があるかないか。ない、けど作れる。

 意味は何か。作れるんだから、俺次第。結局そういうことになるだろう。

 

 よって問題は、生きること、仕事、なんでも含め、いかに意味を構築していくか。

広告を非表示にする