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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「アスペクト=コンテキスト=文脈=物語=意味」

 IT業界に行こうと思っている就活生である私としては、なぜITなんですか?みたいな話はやっぱり聞かれるわけで。そのために考えておきたいことがある。

 

 そもそもITとは何か。もちろん、いろんな定義がある。webもそうだし、時空を超えたインターネットネットワークによる情報交換インフラ、プログラミングにより作業を効率化するシステム、とかね。ITはもはや、我々にとって第二の世界でもある。ヴァーチャル世界がそうである。と同時に、リアル世界における有効な問題解決ツールである、ともいうことができる。

 

 こんな物語を、私の中では考えている。

 人間と他の生物の違いはなんだろうか、と考える。あらゆる生物は環境に適応することで個体保存と種の保存を行なっていく。植物は動けないから蜜を出すことで花粉を虫に運ばせた。動物は、寒ければ毛皮を厚くして、泳ぐなら水かきをその手足に備えた。人間以外の生物というのは、に自らの遺伝子情報を長い時間をかけて変更し、自らの身体を進化させることで環境に適応し、生存してきた。環境ー身体という適応関係がある。

 これに対して人間は、寒ければ服を作り、土を掘りたければスコップを作った。泳ぐためにはフィンを作った。つまり、人間は道具を作ることによって、自らの身体を変更することなく、その外部を変更させることで環境に適応してきた、と言える。つまり、環境ー道具ー身体、という適応関係が存在する。ここが、他の生物と人間の決定的な違いであると言える。

 この道具、つまり環境に適応するために人間が外部に作り出したものには、文化や文明も含まれる。そしてそれらは、我々生身の人間と環境の間を取り持つ緩衝材の役目を果たすにとどめず、それ自体が世界となり始めた。つまり、自然環境ー道具ー身体だったのが、自然環境ー文明環境ー道具ー身体、という構造になり始めた。この、自然と身体の緩衝材としての道具、文明が新たな世界へと変わり、その世界に適応するために新たな道具や文明が生まれるという構造は、もう何重にも深化していくものと思われる。

 

 人間が環境への適応の過程の中で生み出すものは、適応のための「方法」でありながら、人間の属する「世界」となる。ITもまた、ここに位置するものである。

 かつ、ITが他の道具や文化と違う点がある。人間が道具を作るとき、例えばスコップは手の延長であり、服は毛皮の延長であると捉えることができる。移動手段は足の延長と見ることもできるかもしれない。そう考えた時にITは何かというと、頭の、理性の、思考能力の延長であると考えることができる。故にこの延長としてのITという道具の究極は、自ら思考するIT、すなわちA.I.なのではないか。

 

  ITとは、人間の生み出した道具の中で、最も人間の人間たる思考の部分を外化したツールである。故に、このツールは現代において最も進んだツールであると考えることができるのではないだろうか。この最先端ツール、人間の長い進化の歴史の果てにたどり着いている、適応のための最強の方法の最前線に携わり、知ることは、これからの世界の変化に敏感に反応できることを意味するし、現時点最強のこのツールを使うことで、もっともっといろんな課題、適応不全に対処できるのではないだろうか。

 このような人間の生物学的歴史を踏まえた上で、その先端にITという道具と世界を位置づける。進化の最前線に携わりたい。そしてできればその中で、この方法、道具の限界もまた見極めたい。これが、私がITに携わりたいと思った理由である。

 

 たかだか、IT。日常を見つめるだけなら、スマホや、このパソコンなど、生活に切り離せないものではあるだろう。しかしここには、これだけの歴史的な文脈が潜んでいる、というか、作れるというか、物語を構築することができるのである。

 今卒論に関わる本で読んでるものがあるんだけど、その中でウィトゲンシュタイン

アスペクト」という概念を紹介している部分がある。それは、コンテキストとも、文脈とも、そして物語とも読み替えることができるだろう。IT一つとってもそれがスマホです、という物語なのか、上記のような歴史を踏まえた物語なのかで、ITに向き合う姿勢というものは変わってくるだろうと思う。

 

 そしてこのコンテキストに、歴史だとか、教養的な知識のバックボーンがふんだんに使われた上で語られると、それは非常に説得力のある「意味」になるんだろうなーと思った。生きる意味はないと書いたばかり、しかし人は生きる意味を作ることができると。というかそうやって作り出した意味の中を我々は生きているのであって、最初から「意味」とは作り物なのだと。その作り物である「意味」の構造は、このような物語的構造を持つのではないだろうか。

 何をするにしてもそこに、意味を見出す力があれば、それは生きる力にもなる。それに意味があるのかないのか、ではない。それにどのような意味を作り出すことができるか、どのようなアスペクトでそれを考えることができるか。それはどのようなコンテキストを見ることができるか、に等しい。場合によっては私だけで作れるものではなく、相手の物語も踏まえたコンテキストを作る必要もあるわけだけども。この意味を作り出す力が、私の今後の、いろんな意味での課題だろうな、と思う。

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