【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「創発、という概念と、成長について」

 創発、という言葉がある。

 

「部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れること。」

「局所的な複数の相互作用がさらに組織化することで、大域的に個別の要素の振る舞いを凌駕するようなシステムが構成される。」

創発とは - はてなキーワード

 

 んー面白いな。

 

 例えば人間の脳は、多数の神経細胞からできているわけだけど、そういう一つ一つの要素に還元するだけでは、「脳」という一つのシステムを説明することができない、ということを意味する。

 これはつまり、何か大きなものを要素に還元して理解しようという「要素還元主義」に対するアンチテーゼでもある。

 ただ、要素手段から何か大きな別システムが生まれる過程に、飛躍はないらしい。微視的には決定論的に考えることができる、っていうことは、理論上は個々の集合体から何か新しいものが生まれる過程を予測することができるということ。ただその個々の集合体との相互連関を全て把握することはできないから、結局予測は無理なんですけどね、という話。

 

 これを、たくさんのものを集めてごちゃ混ぜにして、全く別の結論が生まれる、的なざっくりした考え方に捉えると、いろんなことを説明してくれる概念である気がする。

 例えば私はよく考え事をするが、2−3時間考えに考えて答えが出ない場合、あえてその思考を無意識側に明け渡すようにしている。つまり意識上は考えない。すると突然、ふと新たな問いが、観点が、生まれることがある。

 またはチームで何か話をしていて、議論が煮詰まった時に、ふと何か別のものが生み出される問いというものがある。これは違う話なのだろうか。創造性に対する話として、創発という概念を考えることはできるように思う。

 

 この時必要なのは、ちょっと距離をおく、という時間によって、この集合であったものが何か別のものになる、ということではないだろうか。創発の過程は私は知らないからこれが理論通りなのかは知らないけれども、少なくとも何かアイデアを生みだすためには必要な過程である気がする。

 アイデア以外だとなんなのだろうね。細胞の集合が一つの生物になる瞬間、人の集まりが一つの組織になる瞬間。距離を置くことをもっと抽象化したら、集合が全体になる過程にあるのは、予測不可能な何か、である。それは合理的思考の向こう側にあるものである。そうしようと思うことを、考えることを、やめることである。

 

 ふと思ったけど、昔ながらの教育というか、伝統技術の伝達とか、もしくは禅の問答とかにも、こういう領域ってあるんじゃないか?創発をあえて促すために、徹底的に考えさせる、徹底的にそれをやらせる、そしてもうこれ以上は無理ってレベルまで突き詰めて頭いっぱいにしてパンパンにして、距離を取らざるを得ない状態にさせる。そこから創発をへて、暗黙知の獲得や、悟りの領域に至るのではないだろうか。

 これは私個人の成長の過程としても考えることができるように思う。つまり「私」であるままで徹底的に突き詰めて、もう無理、っていう壁の前で、「私」を手放す。その瞬間、壁がなくなっていくような感じ。その瞬間、なんでこんな結論すら思いつかなかったんだろうという答えが出てくる。悩んでいたことが嘘見たいな答えが出てくる。

 

 これを「創発的成長」と呼ぼう。すると条件は以下の通り。

 1、徹底的に突き詰めて能力を限界まで追い詰める

 2、もうこれ以上無理というところでそれを私から手放す

 → なんらかの無意識的作用により、非道理的な統合によって新たな知が生まれる

 

 なんか、バタフライエフェクト思い出した。蝶々の羽ばたきが連鎖に次ぐ連鎖によって竜巻の原因になるっていうやつ。

 

 何もかもを「私」の「論理」に委ねるのは、よくないのかもしれない。誰しも、本当に何かを突き詰めようと志向する人は、どこかのタイミングで、「私」だけではそれはできない、非効率的であることに気がつく。そして私の外側にそれを求め出す。私の外側っていうのは、私じゃないもの=他者や本でもあるし、私がいない場所=無意識、合理的思考の外、ということでもある。

広告を非表示にする