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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「PDCAサイクルについて 小思考と大思考」

 PDCAサイクルについて。

 P:Plan…計画

 D:Do…行動

 C:Check…検証

 A:Action…実行

 

 これは成長の法則として、もうどこでも言われていること。元々はPDS(Plan、Do、See)サイクルだったけど、検証するだけで次に活かせていないという反省から、Actionが加わっている。

 昔ある人に、「君は一人PDCAサイクルだね」っていう、ちょっと意味不明の言葉をいただいたんだけども、その後で、「でもこのサイクルにも、質があるから」と言われた。もう4−5年も前のことだけど、未だに残っている言葉。この意味を、改めて考えてみる。

 

 まず成長の定義は問題解決能力だとする。するとこのサイクルを通して、私が問題を解決する能力を身につけていけばいいということになる。成長の価値は、問題に相関する。私が解決したいと思う問題に相関する。問題があるから能力を求められ、能力を開発することの価値が生まれる。そうして能力をできるだけ最短で身につけていくためのサイクルが、これである。

 だとすればこの時点で既に理解困難な部分が出てくる。問題の何が問題なのかを、簡単に見つけることができないからである。問題がすぐわかれば、それを解決するための能力を最短で身につけることが問題となる。しかし問題が何なのか、それは表面的な問題で本当はもっと根っこにあるのではないか、という問いに答えを与えられないうちは、何が能力なのかがピンとこない。問題解決能力を身につける前に、問題発見能力を身につける必要が出てくる。

 この能力の育成にもこのサイクルが使えるのだとすれば、問題解決のサイクルと問題発見のサイクルが出てくることになる。二つの車輪を回していかなければならない。

 

 次に、サイクルの質について。成長を考えるとき、例えば100成長するとする。100時間かけて100成長するのと、1時間かけて100成長するのとでは、どう考えても後者の方が質は高い。ということは、サイクルの質は単位時間の中で考えるべきだということになる。

 質を担保するためには量が不可欠だと考える。サイクルの1回転で100得られるか、100回転で100得られるか、では、おそらく後者の方が妥当だろう。なぜなら成長とは能力の開発、つまりできないことができるようになることであり、それはそれまでの自分が新たな自分に変わることを意味するからである。変わるためには、私の中になかったものをどんどん取り入れ、私が考えもしなかったことをどんどん考える必要がある。サイクルの1回転を、インプットとアウトプットで考えるなら、できるだけたくさんインプットし、できるだけたくさんアウトプットする方が、多くを得られるのではないだろうか。一回の回転では、材料も少なく、そして私が考えて実行するのである。私で対応できる問題ならば、私は変わらないだろう。私が変わるためには、私の未知のものに対して、大量にインプットーアウトプットしなければならない。私が私のままで質を求めても、それは私の現在を超えてはいかない。

 少しまとめると、単位時間辺りでのサイクルの質を考える必要があって、その質は量に担保される。すると、単位時間当たりに何回転できるかということが、サイクルの質を決めるということになる。これはもちろん、サイクルを、である。回転数にこだわりすぎて、やってるだけ、考えてるだけになっては本末転倒である。

 

 すると、問題解決のサイクルと、問題発見のサイクルを、単位時間当たりに、何回転できるか、ということが、質の良い成長に関わるということになる。

 

 インプットとアウトプットについても少し考える。インプットだけ、というのは、本を読んでるだけ、という状態である。未知のものに触れているが、それを身につけることができない。それを踏まえて考えるということが、大切である。そして考えることはアウトプットである、だろうか?学びの意味ではそうかもしれない。サイクルは基本的には、考えて、やる、というものだと説明できる。考えるは自分に働きかけるからインプットで、やるは外に働きかけるからアウトプットである気がするけど、実情は逆で、外に働きかけるから未知のものを得られるのであってインプット、それを消化するために自分の言葉で考えなければならないからアウトプット、である。吸収と消化が成長の基本である。

 ではどちらの方が優先順位が高いかといえば、俄然、インプットである。吸収なき消化は意味不明である。もちろん消化不良はいけない、だから考えることも大切ではあるけど、やる方が大切だろう。

 いや、しかしこれはちょっと飛躍しているかもしれない。まず考えることは消化だけではない。考えることによって論理を重ねた果てに、自分が知らなかったことを発見することもあるのである。考えることによるインプット、というものも、ある。

 しかし、やることによるインプットと、論理を重ねた上でのインプット、どちらの方が時間対効果が高いかといえば、やることではないだろうか。考えることの未知のものを求めるものは間違っている。考えるとは、どちらかというと吸収したものを整理することではないだろうか。

 いや、待てよ?違うな。

 

 考える、ということにも、いろんなレベルがあるのだ。やるー考える、と分けて語ることはできない。ほとんどの場合は、問題を目の前にして、やりながら考えるのである。どうすればうまくいくか、どうすればもっと早く、もっとよく、できるか。考えながらやるのである。この「考える」と、こうして腰を据えてブログに向かって「考える」ことは、違う。やっているその場で既に、サイクルは回っている。超小型回転で、やって考えてやって考えてを繰り返しているはずである。ではこうして腰を据えて考えることの意味はなんだろうか。

 それは、何かをするという時の大枠の姿勢の決定ではないだろうか。何かをしている時、していながら既に考えているとは言っても、それは目の前のことしか考えていない。こうして改めて考えるというのは、もっと大きな枠組みについて考えるということではないだろうか。実践の最中に回る思考のことを「小思考」、もっと大きな枠組み、コンテクストを考えることを「大思考」と呼ぼう。

 PDCAサイクルの弊害は、考えることと実行することを分けて考えてしまったことによる。実際は、同時にやっているのである。だから質の高いサイクルのためには、考えてやるのか、やって考えるのか、という問いはナンセンスである。

 

 すると、サイクルはどうなる?やることと考えることが同時なら、サイクルがなくなってしまうじゃないか!これもまたおかしい気がするな…

 

 やりながら考える、これは、ある。しかし何かをする前に計画をする必要は、ある。そして実行したことを検証する必要も、ある。ということは、やるのと考えるの、というよりは、ずっと考えているのである。計画も、実行中も、検証も、再施工中も、ずっと考えているわけで。ただ考える内容が違うだけである。何をするか、いかにするか、どうだったか、どう活かせるか、である。

 するとサイクルを早く回すということはこの「考える」ということをいかに早く回すか、ということにかかってくる。成長が未知への適応というなら、未知のものをいかに早く知れるか、そしていかに早く適応するか、ということにかかってくる。それは未知であるため、私のこれまでの経験から推測で導かれる方法をまず試し、失敗し、何が問題だったか検証し、また試し、の繰り返しである。すると方法を思いつく早さ、実行の早さ、フィードバックの早さ、そして再試行の早さが、問題になる。さらに一回の経験でどれだけの未知の知を獲得できたか、ということも問題になる。

 このスピードを出すためにはおそらく、意識的に考える、ということでは、ダメである。これはスポーツの考えると同じである。暗黙知的な勢いで、体に覚えさせるような勢いで、考えなければならない。スポーツと同じだ。そして私は、スポーツが苦手である…

 

 でも別に、スポーツに限らないか。ドラムとかも同じ気がする。とにかく、やることである。もはややるだけでいいのかもしれない。考えることは二の次なのかもしれない。実践が試される時というのは、そういうことである。ドラムがうまくなるためにブログに書くことなんてないのである。

 よきサイクルの回し方は、やりながら考えるという、スポーツなどの感覚に通じるものである。このスピードで、問題発見と解決を進めていけばいい。考えることはどこまでも、よき実践のための方法であるべきである。故に、考えるために考えるという行為はいけない。とにかくやる、やってやって回す。これが大事である。

 

 そしてこれは「小思考」に関することである。個々の実践は、それによる成長は、大思考、つまりそれを支える大きな枠組みによっても左右される。仕事がつまらないという人のサイクルと、仕事が意義があるという人のサイクルとでは違う。PDCAの質はその回転数にも左右されるが、それを支える大きな物語にも左右される、ということだろう。

 今後の私の反省としては、やはり実践が弱い。すぐ考え込んでしまう。スポーツのようなスピード感で何かをやってくためには、ということを考えないといけない、が、それを試せる機会がない。今の私にできることは、それならば、大きな物語を語っていくことだろう。なぜ生きるのか、なぜ仕事をするのか、人のためにとは何か・・・

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