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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「哲学をする、とは、どういうことか」

 哲学とは、何か。

 

 私は哲学が好きである。と言っても、すごく勉強しているわけでは、ない。それでも、ソクラテスプラトンデカルトパスカルショーペンハウアーニーチェキルケゴール、カント、フッサールハイデガーヤスパースウィトゲンシュタインなど、名前を知っている哲学者もいるし、好きな哲学者もいる。彼らの偉大な業績を考えたら私のやっている考え事なんて、哲学とは到底呼ぶには恥ずかしいことこの上ないわけで。事実、哲学というよりは、考え事だと思っている。

 

 そこで、自分が考えることも踏まえて、これを仮に「哲学」として、哲学とは何かを、少し考えてみる。

 

 今まで私は、哲学とは、普通人が疑いもしないところを疑って、暗黙の了解になっている部分を探り当てること、だと考えていた。何もかも鵜呑みにしないというその姿勢が、生きることの深みをよりましてくれると、そう思っていた。これは、今でも外れてはいないとは思うけど、十分ではない気がする。

 なんで私が哲学が好きだったのか。それは現実をより深く見ることができるようになるし、そう考えるのか!という感動があったからである。生きることについて、そういう視点を与えてくれるのか、という感動というか。しかし今こうして説明しても、やはりなぜ哲学が好きだったのか、そして哲学するとはどういうことなのか、問われても簡単にはしっくりこない。

 

 生きることにも、この世界にも、本来意味はない。私の中ではそのような結論に達している。そして問題は、意味があるかないかではなく、どうすれば意味を作ることができるのか、だと。

kizito.hatenablog.com

 

 哲学はまさに、ここに位置しているのではないだろうか、と思った。我々は、意味のない世界、意味のない生に、意味を与えて生きている。意味世界と、意味人生を生きている。その意味とは我々の欲望と言語によって紡がれる世界である。この世界に、意味という、秩序というか、体系を与えながら、我々は生きている。

 しかしこの意味世界というものは、矛盾も大いに含む世界である。例えば哲学の伝統的問題として認識論というものがある。主観と客観はいかに一致するのか、という問題。もしくは心身二元論という問題もある。体は外界、心は内界に属するというもの。どれもこれも、我々にとってはもはや当たり前すぎて疑うことすらない意味世界である。

 人間一人ひとり価値観というものは、違う。価値観もまた、個々人が持つ意味の体系である。しかしそれぞれが持つ意味の体型の、ベースとなっている意味の体型というものがある。それが例えば主客二元論だったり、心身二元論だったりする。これは思想と言ってもいいかもしれない。そしてここには大きな矛盾が潜んでいたりする。

 哲学とはこの人間の生きる意味の世界を疑い、点検し、そして新たな意味世界を構築すること、なのではないだろうか。我々が生きる意味の世界を、これまで以上に包括的に、矛盾なく、再構築し直す。これが哲学の役割ではないだろうか。

 

 故に、私は今まで、哲学によって今まで知らなかったこと、でも知らなかっただけでそこにはあったことを、知ることができるのだと、そう思っていたが、実情はそうではない。それは発見されるのではなく、それは作られるのではないだろうか。もちろん、作ればなんだっていいのではない。だからこそ、この現実を最もよく説明する意味体系を作り上げる必要がある。

 だとすれば、意味体系、言語によって、これまで以上に包括的に説明される、意味を与えられる前の「何か」がある。それは、感情や、感覚などによって作り上げられる、言語以前の世界、語られない世界である。音楽や、芸術は、この領域に位置するのではないだろうか。これらをベースに、私はこの世界を、生きることを、最も包括的に説明しようとする。それはこれまでの意味体系の枠組みだけでは説明しきれないかもしれない。この時、従来の哲学を超える意義が生まれる。

 哲学とは、言語と意味によって、この世界とはなんなのか、生きるとはなんなのかを描ききろうとする営みである。その過程の中で、従来の哲学を破壊する必要性も出てくる。そしてそのベースにあるのは、語られる以前のものである感覚の世界、である。ソシュール言語学を使って言えば、シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)のうち、シニフィエが語られる以前の、そして哲学はこのシニフィエをいかにシニフィアンによって語り尽くすか、ということになるのではないか。

 

 故に、最も哲学をすることができる人間とは、より多くのシニフィエを体感している人間である。ここに、「学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を直接読破した人のことである」という、ショーペンハウアーの名言の意味がある。

 

 またこれは裏返せば、語ることはできなくても感じる意味はある、ということにもなる。意味があるのはわかるけど、意味を実感できない、という言葉の意味は、記号表現としての意味はあるけど記号内容としての意味はない、ということだろう。いや、意味という言葉の持つ意味を、どこまで広げていいのだろうか。言語化できないけど感じる意味というものを、意味と呼んでもいいのだろうか。

 

 この世界に、この生に、意味はない。しかし、感じる何か、感じる意味(?)はある。そして語ることのできる意味もまた、我々は語り出すことができる。そうして世界の意味を、生きることの意味を、作ることができる。これまで世界を形作った意味の体型を、より包括的な意味体系によって語り直す、構成し直す営み、これが哲学である。私は哲学をすることで、私にとっての世界の意味を、私にとっての生きる意味を、より豊かに、より包括的に、この手につかむことができる。ただし本当に哲学をするならば、ただ論理だけ繋げるのではなく、感じる意味を含めた意味を使って哲学をするならば、私はもっと世界を経験しなければならない。それを決めるものはなんなのだろうか。うーんやっぱ考え出すと止まらないなー。

 

p.s.

この世界には、生には、意味はないけど、そこに感じるものがあり、それに言葉を与える。この感じるものは、「直感」と言っていいのかもしれない。しかし直感を言語化して意味が生まれるのか、言語化された意味が新たな直感を生むのか。んー。

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