【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「傷つく心の力:未知で曖昧なものに対して」

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 関係性についての研究。なぜなら人間の生きる理由に、人間関係は大きく関わっているから。

 関係性に対して重要な感情は恥と恐れ。関係性を喪失するのではないかというとき、恥や恐れを抱く。

 では関係性を前にしたこのような心のもろさに対して、我々はどうすればいいか。

 研究の結果、このもろさに立ち向かうことができる人は、自己肯定感が強かった。自分に価値があると思っていた。

 彼らは勇気があり、共感力があり、そして、自分の心のもろさを受け入れていた。

 

 人間は心のもろさに適応するために、心を麻痺させる。しかし感情を選択的に麻痺させることはできない。心を全て麻痺させる必要がある。

 恥や恐れを麻痺させるために、喜びも幸福も感じない心にしてしまう。

 必要なのは、麻痺させることではなく、その苦しみに価値を見いだすことではないだろうか。

 完璧な人間はいない。誰もが上手くいかないことがあり、関係性が切られる恐れもある。しかしそのもろさを受け入れてこそ、ぞれでも自分にあるがままに、生きることができるのではないか。そういう自分にイエスと言えるのではないか。

 

 

 「心」と「関係性」というのは、私の卒論のテーマにも関係することなので、興味深い内容だった。ただ時間の制約があるからか、内容が薄い。

 関係性に対しての恥と恐れがある。それは自己肯定感の低さも影響している。関係性をうまく作れないと、自分の心もうまく支えられない。逆に、関係性をうまく作れると、自分の心も安定する。

 我ー汝関係と、我ー我関係の、安定性、不安定性のパラレルな関係がある、と考えていいだろう。どちらかがうまくいけばどちらかがうまくいき出す、ということだろうか。

 自分に自信が持てない、自己肯定感が低いというのは、自分との関係性の問題である。そして他者とうまく関係性を作れないというのは、他者との関係性の問題である。この問題は万国共通、時代不変のものとして存在し続けるように思う。そしてその原因の一つに、完璧を求めるということがある。

 関係性とは予測不能なものである。というか他者とは予測不能なものである。どこまでも、未知の領域を含むのが他者である。完璧であれ、という視点は、全知全能であれ、未知を含まず、不可能を含むな、ということを意味する。故に完璧であれ、という態度からは、未知なもの、曖昧なもの、測定不可能なもの、予測不可能なものに対する態度が欠けてしまう。

 自分に完璧を求める人間は自己肯定感が低くなる。完璧は不可能だからである。故に、他者との関係性も恐る。そういう脆い自分を、完璧であれという信念が、隠そうとするからである。完璧でない自分はダメな自分であり、それを他者の目に晒すことを恐れるからである。

 

 未知であるものは怖い。曖昧であるものは怖い。それを、許せるかどうか。自分は完璧でない、それでも生きてていいんだと思えるか。自分は完璧でないと徹底的に知った時、全ての人間は完璧ではなく、そして多くの人間が同じように完璧であろうとし、苦しんでいることを知る。極端すぎるのだ。完璧であれと、求めすぎる時間を使って、完璧でなくてもできることをやる方が、人の助けにはなるだろう。この、完璧主義、予測可能主義は、科学主義の弊害かもしれないな。

 

 完璧主義という意味世界からどうやって抜け出すか。

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