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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「野矢茂樹『心と他者』 第1章の要約と感想」

 

心と他者 (中公文庫)

心と他者 (中公文庫)

 

第1章 虚と実

 

1、意識の繭

蛇だと思ったら縄だった。では、いまこの見ているものも「縄だと思っている」だけで、本当は縄ではないのではないか?

→その知覚が、幻覚ではないと言える根拠は何か

→「いま・この光景のもつ内容と質をそれ自体としていくら調べても、なおそれが幻覚である可能性は残される。どれほど慎重であっても、なお次の瞬間、私が騙されていることが分かるかもしれない」19-20

※伝統的な認識論の問題。本著では主客二元論については詳しく触れられていない。

 

「幻覚であるのか知覚であるのかといった分類を棚上げにし、いわば括弧に入れて、それ自体として受け取ることができる思われる」21

→現象主義

→それが幻覚なのか知覚なのかわからないけど、そのように見えていることは疑えない。この「見えているもの」=「虚実無記の立ち現われ」22

→我々に与えられているものは「虚実無記の立ち現われ」しかない。故に、その背後に実在を想定し、その実在と立ち現われの一致不一致を確認して虚実を判断することはできない(主客二元論の否定)。

→「ある立ち現われそれ自体に限定するならばそれは虚実無記であり、虚実はあくまでもそれらさまざまな立ち現われの連関性のもとに見てとられるべき」25

※この連関性にも、虚とされる連関性と実とされる連関性がある。ある特定の連関性の元でこそ、実であると保証される。ではその連関性はなにか→複数ある、p31

 

2 枠組としての実在

現象主義であれ、主客二元論であれ、「ともあれなんらかのチェックによって虚実が分類される」39。両者の共通点は、「虚実無記の立ち現われを出発点とし、実在を到達すべき課題として立てている点」41

→二元論者は「私の意識に生じた立ち現われという現象をもとに、それを証拠として、実在の在り方を知ろうとする」。現象主義は、「実在を立ち現われの束へと還元」し、「連関性によるチェックという検証手続きを与える」41

→「二元論と現象主義の差異は、このように、虚実無記の立ち現われから実在へと至る道において提出される根拠の違いにほかならない」

 

虚のチェックはするけど、普段我々はいちいち、実在性のチェックはしない=「鵜呑みにされる実在」40

→正当に根拠を欠いた実在性。根拠から実在性を学ぶのではなく、実践から無自覚に学んできた、実践の枠組みを成す実在性=「枠組命題」45

⑴その命題を疑ったのではその実践が成立しなくなり、しかも、

⑵その命題はけっして実践に先立って検証された真理というわけではない。

→何かを疑うためには、すでに何がしかの実在性を鵜呑みにしていなければならない。事物の実在性は、「到達すべき課題としてわれわれに与えられているのではなく、むしろ逆に、他のさまざまな課題がそこにおいて生きる場を形成している」48

 

3、幻覚論法

虚実無記の立ち現れから、一方は知覚へ、他方は幻覚へ分岐する、のではないのではないか

→「知覚として捉えられていた光景から幻覚ないし見誤りとして捉え直された光景への推移であり、虚実無記な立ち現われからの推移ではない」51

※虚実はわからないがそう見えていることは疑えない、というより、それが知覚/幻覚だと思っていることは疑えない、のではないか。虚実無記の立ち現われを想定しようとしても、私はそれを正しい知覚として想定してしまう、それこそが疑えない。故に、虚実無記の立ち現われは想定不可能。

 

→では知覚と幻覚で何が変わるか…「一つの同じものが新たな意味の光のもとに異なる形で見てとられること」=「アスペクトの把握」55

→あひるーうさぎの反転図形。さっきはあひるに見えて、今度はうさぎに見える。でも同じ線形図形を見ているのであり、これは見方中立的なもの、虚実無記の立ち現われではないか

→単なる線形図形も、一つの見え方に過ぎない。故に、「見方に中立な、見方無記の何ものかなど、思弁的妄想以外の何ものでもない。すべては何らかの見方=見え方のもとに現れている」58

→知覚と幻覚の違いはアスペクトの違い。アスペクトが一変することで、「実在性の枠組が崩れ、参与する実践・行為が変化し、見えているものの意味が変わり、その見え方が変わる」61

※p.61にあるように、このアスペクト論は、経験の所与としての「立ち現れ」を批判しているのであり、虚実判断のための理論的概念としての「立ち現れ」を批判してはいない。確かに、我々が今経験しているこの世界において、虚実判断ができない立ち現れを想定することは難しい。知覚/幻覚だと思っていることを疑えない立ち現れのみである。そしてそれは真偽という価値判断を含めた立ち現れ=アスペクトと考えることができるだろう。しかしそのアスペクトがいかに変化するのか、何を持って真というアスペクト、偽というアスペクトが生まれるのかということが問題なのであり、ここで概念としての虚実無記の立ち現れが「理論上」要請される。故に大森のいうように、「アスペクト出現以前を虚実無記の立ち現われ」と呼んだのである。よってこの概念は所与的経験ではなく、説明のためのフィクションであり、経験不可能。逆に言えば、虚実無記という価値判断を含まない知覚は、経験においては存在し得ない。一切のものは意味=アスペクトのもとに見てとられる。これがポイントだろう。

現象主義:真偽判断のできない虚実無記の立ち現れ(経験所与)の連関から、虚実が分類される

アスペクト論:真偽判断を含まない経験は存在しない。故に、虚から実へ、実から虚へ、見方が以降しただけ。立ち現れ連関は変わっただろう、しかしそのスタートに虚実無記はありえない。

大森:真偽判断というアスペクト以前の段階を説明するための概念として、虚実無記の立ち現れを要請した。

しかしそうすると、説明のためのフィクションである「虚実無記の立ち現れ」を要請する意義はなんだろうか。それによって価値判断が生まれる瞬間を説明できるのだろうか。しかし無価値判断から価値判断が生まれるのか?ここは大森哲学を知らないといけない。

創発の概念を使えば、細胞の集まりが脳を作るように、無価値判断から価値判断の誕生を、還元主義からの飛躍として説明できるかもしれない。しかしむしろ、竹田青嗣の欲望論の方が、この点はうまく説明ができるかもしれない。

またアスペクト論は現象主義を否定できても、結局虚実分類の基準を説明していない。価値判断が変わった(アスペクト変化)んだということ=立ち現れ連関が変わったんだということを言っただけで、どのようにアスペクトが変わるのかは説明していない。またアスペクトがどこから生まれるかも説明していない。故にp.69にあるように、「何の結果も生まず不発に終わっている」。

→この点も、竹田青嗣の欲望論なら説明できるかも。

 

アスペクトの変化では、対象の意味が変わるが、二重視などは「パースペクティブ」の変化

→「意味を保ちつつ、しかもその実在性も損ねられることなく、ただ通常でない見え方をする」66

→二重視は「正しくない」見え方ではなく、普通の視点ではない「正しい」見え方である。よってそもそも、二重視は「徹頭徹尾『実』の場面であり、そこには虚なる何ものも含まれてはいない」66

本節のまとめ68

⑴知覚とみなしていたものが幻覚ないし見誤りであると分かることは一種のアスペクト変化にほかならない。そして、アスペクトの変化を通じて、アスペクト中立的な何ものか、それゆえ虚実中立的な何ものかなど、要請されてはいない。

→幻覚論法の否定(上記※を見るべし)

⑵目蓋の上を圧すとものが二重に見るようになることは一種のパースペクティブの変化にほかならない。そして、パースペクティブの変化はすべて現実における変化であり、そこにおいてはそもそも非実在的な何ものも要請されてはいない

→二重視の否定

 

4、「実在」の意味

アスペクト変化で枠組みが変わるのであれ、到達を目指すのであれ、鵜呑みにされるのであれ、「実在」とは何か。

→このコーヒーカップは実在するか

→このコーヒーカップは、見えている通りここにあるのだろうか

→「『見えている通りにある』とは、つまり、見えていることプラス何なのか」71

→「たんに見えている」+α=実在、ならば、「たんに見えている」=虚実無記

そしてこの+αが、現象の中に根拠を見いだす二元論だったり、立ち現れ連関で説明する現象主義だったりしたが、これは違う。

 

実在性という概念=実践の枠組みであり、鵜呑みにされる

→「実践・行為のさなかにあって」、「透明化している」73。

→故に、我々は普段、「実在するものについては語り合うが、その実在性については語りあわない」73

→「枠組に属する概念が概念でありうるためには」、「枠組の不透明化、枠組の可視化とでも呼ぶべき契機が必要」74

→枠組が不透明化される2つの契機

⑴「未熟ー成熟」という評価軸

…「規則」は「未熟なものを前にして不透明なものとなる」

⑵「正常ー異常」という評価軸

…「実在性に関する枠組は異常なものを前にして不透明なものとなり、主題的に論じられる」76

※異常なものは例えば見間違いでもいい。見間違いをしたことがなければ、当たり前に見たままの世界があると思ったまま生きるだろう。しかし見間違いをした経験が、本当に見たままそこにあるのだろうか、という疑い=実在の可視化をうむ。

 

赤くないものは、赤いをベースに理解される。赤いという状態がなければ、赤くないという状態は理解できない。

→では実在しないということは、実在するということをベースに理解されるか

→逆である。実在は透明化している。「実在しない」という契機(見間違い)によって、実在という概念が可視化する。

→「『実在しない』ということの了解こそが基本的であって、『実在する』という表現はこれに依拠して理解される(可視化される)」79=否定主導語

 

見えている通りにある=正常な知覚

→「『正常な状態』などどいう状態は存在しない、あるのは異常な状態とその欠如のみでしかない」

→「『異常』が『正常』からの逸脱として規定されるのではなく、『正常』が『異常』の欠如として規定される」82=否定主導語

→故に、正常な知覚=実在性もまた、異常な知覚=非実在性の欠如として理解される。

→「さまざまなタイプの『非実在性』の束のネガとしての実在概念」86

※では異常や非実在性がないときは?正常や実在が、鵜呑みにされ、透明化されている。一度も病気にかかったことのない人間は健康の意味を知らない。それが当たり前だから。

「正常/実在」は、普段は主題化されない。これをまずスタートとして頭に入れるべき。そしてそれらが主題化されるには、「異常/非実在」が必要。これらの発見と同時に、「正常/実在」という概念も発見される。そしてそこから「異常/非実在」を取り除けば、可視化された「正常/実在」が完成する。

 

見えている通りにある=たんに見えている+α、ではない

→異常、非実在という、「+αの欠如」が、実在性

→「『かく見えている、そしてこれに何ものもプラスされてはいない』、これがすなわち、『見えている通りここにある』ということにほかならない」86

→そしてこの非実在性を規定するものに、「連関性」、「異常の原因」「背景となる信念」などがある。これらを規定することが、非実在を規定し、非実在の欠如としての実在を規定する。

 

自然的(実践的)場面と懐疑的場面における、虚実のねじれ

→「自然的場面とは、すなわち、われわれが事物の実在性を枠組として諸々の実践・行為を為す場面」87

→この鵜呑みにされる実在がなければ、われわれは「懐疑という態度」を取り得ない

→一方、自然的場面では実在は透明で、それが主題となるのは懐疑的場面においてである

→「懐疑的態度が自然的場面に寄生しているのと逆に、実在概念は懐疑的場面に寄生し、そこから生命を得ている」89

→現象主義は、この懐疑的態度を自然的場面にまで適用したからまずかった。ねじれをねじれのままに、二つの場面を二つのままに、見なければならない。

※要するに、透明な実在の上でこそ懐疑は可能であり、また懐疑によってこそ不透明な実在(実在概念)が主題化される。

場面によって実在概念の在り方が違うということがポイントでは。透明になったり、否定主導的に可視化されたり、など。

 

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 なんか話がトン散らかってる気がするんだよね・・・。

 二元論、現象学の紹介に始まり

 しかし実在には鵜呑みにされるものがあり

 (この時点で、懐疑的場面でばかり哲学をしていた現象学を批判し、その場面とは違う自然的場面がありますよ、と言ってる)

 現象学の虚実無記の批判をし

 (しかしアスペクトもまだ、そこまで大きなことは言っていない。虚実無記を否定したのちに、アスペクトがいかに構成されるか、どこから価値判断がなされるか、この点は竹田青嗣さんを参考にできれば)

 そして鵜呑みにされる実在からもう一度実在を再検討、というところ。

 

 現象学といえばフッサールだが、彼は自分の著書で、自然的態度と哲学的態度をしっかり区別している。した上で、自然的態度を批判する形で、哲学的態度をとっている。この本はその逆で、哲学的態度しかとらないのどうなの?哲学みたいに実在性をそもそもから問わない自然的場面もありますよね?ということを言った本だと理解できる。この二つの場面はそれぞれに存在していて、そしてそれぞれで実在概念の扱いが違う(虚実のねじれ)ということを明らかにすることで、現象学を否定したわけだろう。

 

 すでに書いているが、本著はこの後、さらに現象学の批判の形で、他我問題に突入していく。われわれの実在概念、意味概念、アスペクトを規定するものに、他者の心が避けては通れないからである。しかし同時にやはり私は、欲望論という観点も取り入れたいとも思っている。まずは、この本をしっかり要約して精読するところから。野矢さんの本はもう一冊、『心という難問』という本もあるので、それも読みたいしね。

 

 うまく卒論に使いたいところ。他者と意味と、心と欲望。意味はない、しかしわれわれが作り出すものなのであれば。いかにしてそれは作られるのか。そのテーマにおいて、他者と、欲望は、避けては通れないだろう。

 

 

 

 

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