読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「あるがままから哲学は始まらなければ、語るほどに嘘になる」

 

kizito.hatenablog.com

  こんな大それた題をつけて記事を書いたわけども、さらにまた哲学することについて、考えたことがある。

 哲学は、一応その性質として、何が真実かを求めるもの、である。しかし今日気付いたのは、その哲学という営みによって、悲劇にも私は、嘘をついていたのでは無いか、ということである。

 

 意味は、作れる。これはとりあえずの前提的結論である。しかしこれは、真実を作れる、ということを意味しない。だからこそ厄介なのである。私たちは、なんでも語ることができる。存在しない観念を作ることもできる(ペガサスとか)。しかし故にこそ困るのである。なぜならフィクションを作る能力はあるくせに、何がフィクションなのかわからなくなるからである。

 哲学を勉強しているとよく、デカルトフッサールを指して、「自分の頭で考える」ということの大切さを説かれることがある。私は今までこの言葉の意味がよくわからなかった。いや自分の頭で考えるって、逆に他人の頭でどうやって考えろと?と思っていた。そしてそれは、なんとか解釈するなら、他人の思想を鵜呑みにせず、自分でそれらを批判的に検討しろ、ということだと思っていた。

 違うのである。自分の頭で考えるということは、何を基準として、言葉を紡いでいくのか、ということである。故に確かに、他人の思想を基準に言葉を紡いでは、その当人の哲学は現れない。彼は学者ではあっても、哲学する人間では無いかもしれない。しかし、自分を拠り所にして考えることができなけれが、たとえ時間をかけて、こうしてブログに阿呆みたいにあーだこーだ書いても、それは私の哲学にはならない。

 

 人の思想を借りるのではなく、しかし自分を拠り所にすることもない、これはどういうことか。これは上手く説明はできないが、しかし世の中の多くの人は、社会的価値観に脅かされ、自らの価値判断ができない、もはやそれがなんなのかわからなくなっているのではないだろうか。そういう意味である。私を拠り所としないということは、この私、この掛け替えのない固有の私を拠り所にすることなく、社会的な私、当たり前、かくあるべしの私を拠り所にしていた、ということである。

 

 上手く説明はできないけど、大森荘蔵は、哲学は現実の包括的描写であり、論理はそのための道具に過ぎない、みたいなことを『物と心』で言っていた。

 

物と心 (ちくま学芸文庫)

物と心 (ちくま学芸文庫)

 

 

 論理的であるかどうかではなく、何をどれだけちゃんと見つめたかが問題なのだ。私はそのような姿勢で考えていただろうか。非論理的なのは確かに、他者に理解されないから問題かもしれないけど、しかし論理なんて、なんだって語れるのである。問題は論理的であるかではなく、その論理で何を見つめ、何を語るか、ではないだろうか。

 

 この、何を見つめ、何を語るか、ということを、私はないがしろにしてきたように思う。そこには善悪でいう悪、美醜でいう醜、も含まれるだろう。

 なんだろうなー。それだけじゃないんだけどな。そういう価値判断だけじゃなくて、なんかこう、いややっぱり人の借り物で思考していたんだろうなー。この現実から、語ろうとするのではなく、語られたものをベースに、この現実を捻じ曲げていたように思える。

 論理を突き詰めて真理にたどり着く、ではない。いわば、真理はもうすでにここにある。あとはこれをいかに、認識するか、言葉で説明できるか、である。価値判断としても、存在の判断としても、こういう、あるがままを見つめる姿勢を、保たなければならない。なぜなら何度もいうように、人間はあるがままでない在り方ができるからであり、そして多少なりとも、社会がそれを要請するからである。

 

 この話は、今読んでいる、竹田青嗣の『意味とエロス』に触発されて生まれた思考である。

 

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

意味とエロス―欲望論の現象学 (ちくま学芸文庫)

 

  私の言わんとしている意味での哲学を読むと、これまで見えていなかった世界がパッと開け、そしてもう後戻りができなくなる、そんな気にさせられる。論理的に整合的あどうかとかじゃなくて、まさしくこの生を言い当てている、という感覚。それは、理論や論理で、作られた固定観念で、この生を捻じ曲げるのではなく、この生をこのまま見つめる目線からこそ、生まれるものである。なんか、瞑想とかの領域、ではないのかな。現象学やっぱ難しいけど、少しずつわかるようになるにつれ、やっぱすごいと思う。

広告を非表示にする