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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「男はつらいよ 32作目を観て」

  「男はつらいよ」という、有名な映画シリーズがあって。同居人の一人がやけにはまっているから、去年の夏休みに時間使って一気に見てやろうとしたことがあった。結局、シリーズの半分くらいしか見なかったんだけども。

 今日久々に、そのシリーズの中の一作を見た。同居人が男はつらいよの中でも特におすすめする、32作目である。

 この映画は、基本的に主人公の寅さんが、ヒロインに振られて、終わり、という構造である。しかし回を重ねるごとに、その「振られる」というのが、単純な構造ではなくなってくる。

 ネタバレになるけど、今回のヒロイン役である朋子と寅さんは、おそらく相思相愛であった。しかし朋子の父の何気ない暴露により、二人は気まずくなってしまう。例えば自分が好きな人がいて、相手もおそらく好きだろう、しかし付き合っているわけではない、という時に、お前ら付き合ってんだろ?とか茶化された場面を想像して欲しい。そういう感じである。

 ここからは壮大なすれ違いが、二人の関係をさらに複雑にしてしまう。この一件で虎さんは故郷に帰ってしまう。それは、その父の話を聞いたことによって、本気で婿になることを考えた上であった。故に手紙に、「今後の身の振り方を肉親に相談する」と書いている。しかし朋子には、寅さんは父の発言が重荷になって、気まずくなって帰ってしまったと罪悪感を思ってしまった。重荷になると思った、ということは、やはりお互い好きだろうということを、朋子も了解していたということである。でなければ、帰ってしまったことに対して、そういう罪悪感は抱かない。

 そして朋子は寅さんに会い、詫びを入れるために上京する。父の非礼を詫びた時、寅さんは「そんなことは気にしていない」と、言ってしまう。今後の身の振り方を肉親に相談するくらい真剣に婿に考えている男の、精一杯の強がりである。そして「安心しただろ?」の一言に、朋子は首を振る。気にして欲しかったからである。お互い実は相思相愛であると思っていたことが、「気にしてない」と言われると、ただの思い過ごしになってしまう。勘違いになってしまう。寅さんは安心させたくて強がった、その態度によって朋子は、自分の勘違いだったと思わされてしまうわけである。

 

 なんというすれ違いだろうか。しかし、この矛盾、解決し得ない、お互いがお互いを思っているのにも関わらず起きてしまうすれ違い、こういうことは人生には、あるのだろう。単純に、振られてしまって、悲しいね、ではない。もっと、もっと救いがない。相手に思われていなかったから振られるのはまだ納得ができる。しかしお互い好きなのに上手くいかないって、もうどうしようもない。

 でも、「救いがない」という言葉が絶望を連想させるのとは裏腹に、この場面にはどこかもどかしさ、しんみりとした悲しさ、淡さが漂うのである。この違いの心理構造をそのままに、もっと濃い味にしたら、お涙頂戴の恋愛物語になると思うのである。しかしそうではない。これは一体なんなのだろうか。不思議である。

 

 なんか、俺は無粋な人間だから、こういう話を聞くとついつい、分析して、問題をいかに解決するか、みたいなことを考えるんだけど、この映画はもはや、そういう立ち入り方も、許さない。やろうと思えばできるだろう、寅さんはこうすべきで、朋子はこうすべきだったなんていう解釈もできるだろう。しかし、そういうことではないのだ。誰も悪くないのだ。互いが互いを思うという尊い気持ちしかそこにはなかった。しかし、ただただ、互いが互いを思う気持ちが、裏切られ、挫折した。その瞬間を、受け止める他ない。救いのなさを、受け止める他ないのである。だから、逃げ場がなくて、結構きつい。 

 

 人は心が強く動かされる時、もはや意味のある言葉を語ることはできない。ああ、とか、うわ、とかしか言えない。この映画もまさに、ああ・・・としか言えない映画であった。あーー逃げ場がない!きっとこういう時、問題をバラして解決することではなくて、ただ愚痴を言ったり、ただ泣いたり、ただ笑ったりするという気持ちの解消の仕方が、活きてくるのだろうなー。

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