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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「めんどくさいの、乗り越え方」

 カント、という哲学者がいる。彼は『啓蒙とは何か』というエッセイ?で、啓蒙に関してこんなことを言っている。

「啓蒙とは人間が自分の未成年状態から抜け出ることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。(中略)大方の人々は、自然の方ではもうとっくに彼らを他人の指導から解放しているのに、なお身を終えるまで好んで未成年の状態にとどまり、他者がしたり顔に彼等の後見人に納まるのを甚だ容易ならしめているが、その原因は実に人間の怠惰と怯懦とにある。

 

啓蒙とは何か―他四篇 (1974年) (岩波文庫)

啓蒙とは何か―他四篇 (1974年) (岩波文庫)

 

  僕はこの考え方が好きである。啓蒙とは、ということはよくわからないけど、この啓蒙の部分を「自己実現」に言い換えても、なおその原因のなんたるかの分析には十分な説得力を感じる。つまり、怠惰怯懦、これが人間を甘えさせる、ということである。

 

 この二つの大敵に、私もどう立ち向かえばいいのかというのは、なかなか難しい問題で。特に私の場合だと、他者に対する怯懦(恐怖)と、休みの日の怠惰は、なかなか克服することができない。本当は相手のことを考えたらこれをいうべきだろうという時に言えなかったり、相手の心を深読みしずぎて言えなかったり。もしくは休みの日に読書だの何だのしたいと言いながら、結局youtubeを一日中みている、というのが現状である。

 就活の中で、できればあまり不当な残業が多いところには行きたくない、休日も当たり前の範囲ぐらいはあるところに行きたいと思っていた。それは休みの時間を使って、本も読みたいし、音楽もしたいし、という思いがあったからである。しかし今、私は時間を放蕩しているだけで、全く価値ある使い方はできていない。それはひとえに、めんどくさいからに他ならない。めんどくさいのである。

 今週の金曜日から学校が始まる。今週が春休みの最後である。だからこの休みの間に、英語の勉強と卒論は、ある程度進めておきたいと思っていた。しかし昨日も、今日も、結局youtubeで動画を見ているだけ、である。全くもって有言不実行である。結局楽したいだけである。

 

 さて、でもここまできたら、もう楽したい自分を認めてしまおうか、とも思ったりする。よくめんどくさいっていうのは、本当に好きだからではないからだ、という話を聞いたりもする。しかし、面倒かどうかは、好きか嫌いかでは語れない気がする。好きー嫌いという評価軸とは別に、楽ー面倒という軸がある気がするのである。そして楽ー面倒という軸で問われていることは、好きー嫌いという軸で問われている、快の程度問題ではなく、つまりインプット側の問題ではなく、自分の労力のアウトプットの有無の問題である、と思う。

 私は本を読むのは好きである。しかし休日にそれをしようとは思わないのは、疲れるからに他ならない。疲れることは面倒臭いのである。

 

 すると問題はこうなる。疲れてもできるようになるのか、疲れない方法を考えるのか、である。もちろん疲れるということと好き嫌いというのは関係もするだろう。全くやりたくもないことをやらされる時間は疲れるし、楽しい時間は疲れを知らずのめり込むこともできる、だろう。ということは、やはり私は読書を、そこまで好きなのではないということになる。嫌いではない、知的好奇心をくすぐられるけど、やっぱりそこまで好きなのでは、ないのだ。

 では私の好きなことは何か。youtubeを見ていても明らかである。私は文字媒体からのインプットではなく、映像媒体からのインプットの方が、より楽で、面白いと感じるのかもしれない。

 

 ならば、である。例えば、まず映像媒体での学習から入って、その後文字媒体への学習にシフトするというふうに、自分のモチベーションを誘導していく、ということはできないだろうか、と考える。いきなりモチベーション的に負担のあることをしようとするから、めんどくさいが勝ってしまうのである。故に習慣にならない。故にいつまでたっても、ダラダラとしてしまう。

 ならば最初は好きで楽な映像媒体での学習から入り、知的好奇心や学習意欲にスイッチが入った段階で、読書なり座学なりに進む、というのは、全然ありなのではないだろうか。もちろん、youtubeでゲーム実況とか見ているのではダメ、である。

 

 例えばそのための番組として、「100de名著」とか、「プロフェッショナルの流儀」とか、さっきまで見てたのは「橋下・羽鳥の番組」とかあるわけで。もしくは私はこういう文学やビジネス、政治だけじゃなくて、人間の面白さみたいなのにも興味があるから、「ネホリンパホリン」とか、「アウトデラックス」とかも好きなわけで。

 要は、ただ時間を楽しいだけに無為に浪費するのではなく、それによってなにがしかの学びがあればいい、またそれによって俺が頭を考えて使えればいい、という話なのであって。本か映像か、というのは、そのためのツールの議論にすぎない。

 だったらまずは、負荷の低い方法から入って、徐々に高める、という方が、マネジメントとしてはありなのではないだろうか、なんて思ったり。

 

 勉強しなきゃと思いながらめんどくさくてできない自分に対する自己嫌悪は、もう高校生くらいの時からずーっと感じてきた問題である。いい加減、できないということを認めてもいいのかもしれない。「できない」と「未熟」の境界線ってどこにあるのかわからないけど、さすがにこれだけの年月考えて悩んでどうしようもないなら、そしてとりあえず精神論以外の答えがなくて、その精神論では同じく精神であるやる気の部分に何も貢献できないのであれば、具体的な方法を、やり方を、システムを、変えていく必要はある。

 できない自分を罰することは厳しさである。甘いよりはいいのかもしれない。しかしより本質的なことは、厳しいか甘いかではなく、前に進んでいるのかどうかである。そうでなければ厳しさの意味がない。自分を罰するだけで前に進んでなければ意味がない。よって前に進むという本質から考えるならば、厳しさだけで終わってしまうこともよくないのだ。苦しみに意味を見出して甘えてはならない。くるしかろうが努力しようが、前に進んでいないなら無駄である、という厳しさも、持たなければならない。この前に進むのは、結果を出してないということではなく、成長していないという意味である。

 

 よって、まとめ

→まず映像という動機負荷の低い媒体によって学習を始め、そこから徐々に本などの媒体に映る。

 

 

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