読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「友との対話にて」

 自分が何をしたいのか、したくないのか、ということと、何が正しいのか、正しくないのか、ということは、分けて考えなければならない。

 当為はたやすく実在に成り替わる。あるべきだ、と思いつづけることが、自分のある、に含まれる悪を排除し、見えなくし、べき=あるになってしまう。その過程で、すべきことが、やりたいことに成り代わってしまう。しかしそれでは、私=社会的正しさ、以上のものにはなれないし、そういう将来の選び方は窮屈になってしまう。人を動かすのは正しさだけではなく、欲望や望みであるからである。

 

 論理的思考というものは、ゴールではなくて、スタートであるべきである。論理的にものを考えて人に伝えるというのは、コミュニケーションにおける誠実さであると考える。なぜなら論理的でない話というのは、経験を共有している二人でなければ理解することはできないからである。しかし経験を共有している二人の会話とは、何か新しい相互理解に及ぶものではない。共感して終わりである。そうではなく、まったく違う二人が互いを理解することで、互いにとってなかった視点が共有されることで、相互教育へと発展するためには、異質な経験が交換されるためのツールである、論理が必要であると考える。

 しかしまた、その論理が万能であるかというと違う。例えば論理とは、A→B→C→D→・・・という構造であると考えることができるが、この→を選ぶものは何か。また論理を遡った時の最初のAを選ぶものは何か。ここには、論理には還元しきることができない感性というものが存在するのではないだろうか。感性だけで話す人は同じ経験を持つ人としか互いの意見を共有することができない。しかし論理を突き詰めた先にあるのは、この感性のレベルの必要性である。ここを理解していない人の論理はどこか納得をうめず、排他的で、無機質で、怖い。

 

 その時その時のタスクの優先順位を考えなければならない。優先順位を考えることで、時間の価値を有効に活用することができる。今直近で欲しいものがあるのに、自分のできる仕事だけを優先してするのはよくない。では優先順位とは何で決まるか。それはそのタスクの目的と、そのタスクの締切である。何のためにそのタスクがあるのか、それをこなさなければいけないかを考えた上で、それはまだ時間をかけていいものなのか、もしくは締切はそんなに早くないけど結構時間がかかるものなのか、自分だけで終わらせることができるものなのか。そういう見通しと、目的に相関した重要度とを踏まえた上で、仕事の優先順位を決めていかなければならない。そうでなければ、どこかで自分にも、周りにもしわ寄せがきてしまう。

 

 自分の人生の責任は自分で背負えるぐらいにならなければならない。別に人生に対して求めてないとか、楽していきたいとか、別に構わない。構わないけど、私はそういう生き方は、やっぱり選ばない。人生に絶望したこともある、もう生きるの嫌だと思ったこともある、こんなクソばっかな人間に対して何で自分が何かを提供しなければならないのかなんて思ったこともある。しかし、それらは全て甘えだった。社会を、世界を恨むのも全て、やはり甘えに過ぎない。できないから受け入れられない、これは仕方がないことである。だってできないのだから。しかしだからこそ、そのできない自分を真摯に受け止めた上で、どうすればいいのかを問いつづける必要があるのではないだろうか。できないことは責めない。しかしできない自分を許す甘えは嫌いである。それはお前がある程度できてきたからそう言えるだけだろうと、そう言われるかもしれない。そう言われたらそれまでである。しかしそれは努力した上で言えよ、と思う。しかし努力できるかどうかも人それぞれ、努力することが難しい人だっているのである。そういう人はどうするのか。そうだな、そういう人はどうするんだろうか・・・

 

 私は、相手の言葉の裏に読み取るものが、相手の論理の隙間に読み取ることが、苦手である。いきてんのなんかつまんない、みんなさっさと死ねばいいのに、という言葉を、真に受けてしまっては、確かにそこに見えるのは甘えであり、努力不足であり、自分を受け入れない世界への恨みに甘えたちゃちな自己正当化である。しかし、その裏には、その恨みの裏には、自分を受け入れてくれなかったという事実に対する悲しさがある。甘えかもしれない、しかし人はそう簡単に一人で苦痛に耐えていくことができるわけでもなく、誰もが前を向いていきていくことができるわけでもない。私は最近、就活がうまくいって内定が取れたからといって、調子に乗っているのではないだろうか。自分に自身が出た途端に、弱さを甘えといって断罪している。それもこれも、自分の文脈でしか人を見ることができないことの表れである。

 最初っから順風満帆で、うまくいっている人のことは、理解する必要はない、共感する必要はない。問題は世界の厳しさに打ちひしがれた人である、希望を持てない人である。どれだけ口では甘えを述べて、行動も依存的で甘ったれているにしても、その底には何かこう、絶望があるのだということを、考えなければならない。悪の底には絶望がある。人に優しくなれない人間には孤独と絶望がある。しかしこの見方も、どうなのだろうかとも思う。しかし悪を悪のままに、許すことが果たしていいことなのかというと、私にはわからない。

 

 自分が生きることがうまくいきだした途端に、うまくいっていない人に対しての共感が少なくなっていること、この節操のなさ、バカタレである。あっという間に強者の側に立ったような気になって、上から、ああしたほうがいい、こうしたほうがいいと講釈を垂れる、ついこの前までは私も希望を見出せなかった人間だったのに。できないと未熟の境目がわからない、これはあるし、結構難しい課題、なぜなら未来だけがそれを決められるからである。では、甘えと、弱さの違いはどこなのだろうか。弱さには力があるというのは鷲田清一さんがいっていることである。しかしだからと言って自分の弱さを肯定していいのか。それは甘えではないのか。ではなぜ甘えではいけないのか。他律的だからだろうか、自分のことしか考えていないからだろうか。

 弱さの力とは、その弱さゆえに他者に優しさが向くこと、なのかもしれない。そして甘えとは、自分のできなさを自分のために自己正当化しているだけなのかもしれない。だから、できないことは弱さであり、それは許そう。しかしできないことを自分で許してしまうことは、甘えではないか。いや、許してなお、他者に要求する、他者が悪いとか、世界が悪いとかいうことを、甘えというのか。

 

 誰もが弱者ではないのか。自分が乗り越えたからって、乗り越えられない人に対して、乗り越えるべきだと声高々にいうことが、良いことだろうか。うーん。

広告を非表示にする