【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「私は相手の心を理解することはできない」

 昨日、弱さと甘さについて、少し考えた。

 

kizito.hatenablog.com

 

 私は最近調子に乗っている。自分の現実的な問題が少し解決したことによって自己肯定感が上がり、正しさを人に上から言えるようになっている。昔はそんなことはなかった。自分が正しいという自覚はなかったし、それに対しての自己否定感に苛まれていたからである。

 弱さの力とは、自分が弱いという自覚によって人の弱さに気がつくことができる、それによって弱さに悩んでいる人を救うことができること、と解釈している。これは私も賛成だし、これによって弱さ=悪と思われていたことが少しでも、そうでないと意味付けすることができればいいとも思う。そしてそうであるからこそ、今、少しだけでも弱さを克服して、少しだけでも強くなった私は、弱い人間に対する共感力がなくなっているのではないかと、こう思うわけである。

 

 しかし果たして、本当にそうだろうか。私のこの節操のなさに対する違和感は、本当にこういう問題だろうか。だって例えば、相手の弱さに寄り添って共感するということは大事なことである。しかしそれだけでは、本当に相手を大切することにはならない、それは相手の心を痛みから取り除くことはできるかもしれないけれども、それだけでは相手は幸せにはならない。相手のことを本当に思うとは相手の人生を思うことなのであって、人生という時間軸で見れば未来のよき時間のために今の時間に厳しいことを言うということも、重要なのではないだろうかと思うのである。と、いう結論は、前に出たはずだし、これが間違っているとは思えない。

 だとすればそれができるのはまさに今、なのではないだろうか。ある程度自分に自信を持ったからこそ、相手に何が正しいと、自分が思うことを、相手を思っていうことができるのではないだろうか。だとすれば私のすべきことは、上から正しさをいうことを諌める、ことではない。それをすべき時もあるはずである。今私は、相手に寄り添うことしかできなかった弱い自分を乗り越え、いうべき時にはいうこともできるという状態になっているはずである。だとすれば、私のすべきことは、その二つをどう使い分けるか、ということに他ならない。

 

 また、さらにいうのであれば。相手が幸せになれるように、相手が自分の幸せに自分で気づけるように、これが目標である。ゆえに最終的には、相手が私みたいな人間にあーだこーだ言われなくても自分の問題を自分で解決できるようになることが理想である。そのための方法として、寄り添うとか、厳しくいうとかあるわけだけども、それだけではないだろう。もっと方法は、あるのではないだろうか。にも関わらず私は最近、何かをいうことに、やや強く出過ぎではないだろうか。

 それはおそらく、相手の抱える問題を解釈した時に、自分の中ででた枠組みが、正しいと思うからである。しかしそれは、私の思う正しさなのであって、相手にとってそれが正しいのかどうかわからない。相手にとってそれが、相手の現実も踏まえた上で、確かに、その方がいい、と思えるようなものなのか、そういうものを提出することができているのだろうか、ということが問題である。もちろん、精神的に完全に潰れている人に、解決策を述べることは、違う。怪我をした時はまず癒さなければならない。その上で、である。

 私の今の正しさを伝えるという方法において、相手に幸せになってほしい、自分で自分を支えられる人間になってほしいという動機に、とりあえず間違いはないように思える。しかしそのための方法としては、何かこう、独りよがりなところがある気がするのである。そしてそれは、相手のコンテクストを見切れていないところに問題があるように思えてならない。

 人間は正しさだけで動く人間ではない。いろんなことを総合判断して動くのである。一つの問題を解決するための方法の判断基準には、時間的、資源的に可能かどうか、能力的に可能かどうか、感情的に可能かどうか、といういろんなことが含まれる。こういう制約というかいろんな条件を抜きにすれば、そりゃなんだって言える。でも制約抜きで語る方法は理想論にしか過ぎないのではないだろうか。

 今日も「橋下・羽鳥の番組」を見ていたけど、橋下さんの話に説得力があるのは、この制約、つまり現実というものを、ちゃんと見た上での話をしてくれるからだと思う。現実は頭の中にはないのだ。この制約をちゃんと見極めているかどうかが、方法の価値を決める。西條剛央さんは構造構成主義において、方法とは目的と現状を代入すれば見えてくる、という趣旨のことを書いている。これは理想と現実と言い換えても同じである。現実の制約を見ずに語る方法は机上の空論でしかない。

 

 しかし、弱さに対する共感というのは、言葉に尽くしがたいものがあり、そしてそれは、今まさにそれを経験している当人でしかわからないような辛さの感じ、というものがあるように思える。自分が辛かった過去を踏まえて語るとしても、その想起された過去の痛みと、今まさに体験している痛みとでは、その程度において雲泥の差がある。この痛みを、現実とするならば、私は現実を理解することができないということになるだろう。私は相手が今まさに感じている苦しみを理解することはできない。何をどうやっても理解できない。私もまた、その苦しみと似た境遇の中にいるのであれば別だが。現時点における経験というものがなければ、過去に経験した、というレベルでおいても、理解しているとは言い難い。

 だとすればこれが現実である。相手の心の痛みは、その程度においては、私には決して理解することができない。あの痛みのあのありありとした感じはまさに今この瞬間に感じている痛みに対してのみ得られるものであり、想起する痛みにはそれがない。相手がまさに痛がっているとき、私もまた痛がっているのでなければ、私はその痛みを理解することは不可能である。この不可能が現実である。私は自分が自信を持って強くなったと言った。それによって弱さへの理解が減った、と言った。それに対して節操がない、と言った。これは、自分が現実ある程度うまく言っても弱い人の心を理解することができる、という幻想があるからこそ、そういうことが節操がないと言えるのである。現実にはそんなことは不可能なのである。強くなった人間は弱かった頃に戻ることはできないのであり、故に弱かった時ほどには、弱きものの心を理解することはできない、これが当たり前なのである。

 頭の中だけで考えるから、こういう当たり前が視界から外れていくのである。変えることができることと、変えることができないことを、見分ける叡智、である。その英知は、机上の空論からは生まれない。現実の制約からこそ生まれるのである。

 

 さてでは。まさに苦しんでいる人の心のありありとした痛みは、私も同時的にそれを感じていない以上は、理解や配慮はできても共感することはできない。相手のことを大切に思うという目的の上では、相手の心を理解するというのは現状の理解として、方法を導き出すための適切なプロセスだが、その現状を理解できないということが現状の真実である。ではそこから、どのような方法が導かれるか。

 まず、共感できないことは共感できない。ありありとした痛みを感じることはできない。これがある。すると、こいつは何でこんなに苦しんでいるんだろうか、ということが理解できないということがある、ということになる。その時、弱さは悪になるのではないだろうか。うーん。

 ここで問われる方法は、組織を変える方法でもなく、相手を説得する方法でもなく、自分を変える方法である。相手という「自分」を変えてもらうために、必要な方法である。しかしその相手としての「自分」とは、このいまブログを書いている私、ではない、のではないだろうか。だからやはり、相手としての「自分」では私はあり得ない以上、現状の理解は困難である。それが組織とか、そういう客観的な対象であれば、そうではないのかもしれないけれども。

 いや、現状の理解ということも、何か間違っているような気がする。多分この枠組みそのものが間違ってる気がするなーまた嘘になっちゃったか。

 

 弱さは、でも、認めることは、できる気がする。弱さの上にあぐらをかいている甘えた人間は、好きではないし、認められないけど。でもこれも、厳しすぎる気もするんだけどなー。そもそも相手の幸せを考えるとか言っても、それを決めるのも私ではないんだよなー。何なんだろこの、相手の心といい、幸せといい、価値観といい、それを決めるのは俺ではない感じ。やはり心は差異から生まれるのか。しかしだからと言って私が相手の心に干渉しないわけではないはずである。と同時に全て鑑賞しているわけではない。確率論か?いや、何か法則はあるはずである。

 多分、コーチングとかいう技術になってくるんだろうなー。

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