【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「型無しは三流、型有りは二流、型破りは一流」

 例えば、何か新しいことを始めた時。例えば、それが好きになってとことん極めたい時。例えば、なんか最近うまくいかないな、という時。考えれば考えるほど、「基礎」というものの大切さに行き着く気がする。

 

 例えば英語。今日TEDの動画の英語を印刷したものを文法分解したんだけど、かなり気づくことが多かった。自分は海外に行っていたのだから、大学受験で勉強したのだから、英検2級持っているのだから、だから基礎なんてもう完璧だろう、なんてのはやはり、驕りに過ぎなかったということを痛感させられた。文法を分解しながら読むことで、文の核である主語と述語をしっかり把握しながら、その骨格がいろんな語の連なりによって広がっているだけということがよくわかった。主部と術部、副詞句とか。修飾はどこにどうかかっているのか、指示語はどこを指しているのか、いちいち確認することで、しっかり読解できた。これを当たり前にできるようになれば確実に英語力は上がるはずである。

 もう一つ。最近、バイトで怒られることが多い。どう考えても私が悪い。サボっているからである。しかし、頑張ろうという気があるのに、なぜかうまくいかない、サボる気は無いのに、なぜか指摘されて、指摘された後に、確かにその通りだ、と思うことが多い。これもまた、バイトにおける基礎が脱落していることに他ならないな、と思った。

 

 私は、へそ曲がりというか、天邪鬼な人間である。相手にこれをしろと言われれば、なぜ?と問いたくなる人間であり、そして根拠に納得がいかないことはしたく無い人間である。しかし、基礎的なことを行うという意味では、それは大きな間違いだったのでは無いだろうか。

 みんなが当たり前にやっていることに対してどうしても反抗したかった。何でみんな無根拠に右向け右ができるの?何で自分の頭で考えないの?そう思っていたし、それはおそらく、正しいとも思っている。何も考えないよりも何か考えたほうがいいだろう。しかし、基礎的なことに対して、その根拠は?と問うことは、実はすごく難しいのであり、基礎を身につけられていない人間がそれをすることは、単なるガキの反抗に過ぎない。

 

 例えば、数学を考える。数学においての基礎は公式を覚えることである。まずは無条件に公式を覚えて、その上で応用問題を解く。これが数学である。公式=基礎を覚える前にそこに疑問を投げかけていては、応用問題が解けるはずもない。しかしこの世には、その公式に根拠を問い、疑問を投げかける人もいる。誰か。数学者である。大学教育を超えて、基礎も応用も徹底的に学んだ学者である。基礎を問うとは、そこまでして初めて、できることなのではないだろうか。

 基礎とは真っ先に学ぶものだから、実に簡単で、実にちゃちなものと思われがちである。しかしそうではない。基礎とは、それまでの先人が、全くの未知の問題に出くわしながらも探求を進め、そうして発見された知恵の、濃縮されたものではないだろうか。それこそ素人が簡単には根拠なんて問えないほどの叡智が、そこには含まれているのではないだろうか。バイトの接客、挨拶の一つをとってなお、である。

 そしてその基礎を学ぶということは、それまでの先人の凝縮された知恵を、そのまま受け取ることを意味する。彼らの苦労から、苦労だけ抜き取った結果のみを享受することができる、ということに他ならない。これができるから、先人が100年かけて見つけた叡智を半年で学べるから、人は進化ができるのである。

 だとすれば私のすべきことは?どう考えても、基礎に刃向かうことではなく、出来うる限りの速さでそれを取得すること、これがまず先ではないだろうか。下手な個人的解釈で、根拠がわからず、そうじゃないと思うけどなーなんて言う資格はないのである。と言うかそれは当たり前である。先人の努力の結晶を、理解することができるだけの能力が、私にはないからである。こう考えると、基礎の大切さを、意味するところを、真に理解できるようになることもまた、成長だと言うことができる。

 

 考えること、刃向かうことは、ここからが大事なのである。基礎を習得し、その意味するところも知り、応用もしまくって初めて、その基礎を超えたものを見いだすことができる。基礎とは前提であり、前提を変えればより良く応用が解けるというものを、見いだすことができるようになる。基礎に対して刃向かうことを考える、というのではない。基礎を身につけてなお応用を通してその基礎を批判的に検討することを、考えるというのではないだろうか。

 基礎を超えていくこと、基礎を徹底的に身につけた上でそれを批判的に乗り越えること、これを「型破り」というのである。基礎を身につける前から、その価値に見向きもせず、勝手な自己判断で批判すること、これは型破りではなく、「形無し」であり、基礎を身につけていないという意味では、三流である。

 形無しは三流、型有りは二流、型破りは一流、というところだろうか。こう考えると私は長いこと、三流だったのだなと思う・・・。

 

 まずは、理解できるかできないかを捨てて、型を、基本を、身につけることである。これは普遍的な成長法則である。学問にしても、スポーツにしても、まずは徹底的な型を作ることであり、我流でやっているのはそれ以下の三流である。ここに、この型というものをそのまま受け入れていくことに、素直さの意味があるのだろう。

 無論、いろんなレベルで見れば、受け入れられている基礎もあったりするし、細かなところだともう型を破っているところもあるかもしれない。何にせよ、一度身につけて、その上でそれを内側から超えていく、という姿勢がいいのかもしれない。三流にならないためにも、不要な思考を省かないと。

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