【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「哲学の勉強の仕方に悩む」

 んー。悩んでいる。

 

 休日の使い方をちゃんと考えたい、と言った。

kizito.hatenablog.com

 

  私はとりあえず、読書がしたい。哲学をちゃんと勉強したいな、と思っている。独断で哲学を解釈するのではなく、歴史通観的に原理を底上げして行く様を知りたい。つまり、哲学を基礎から勉強したい。基礎については昨日書いた。

kizito.hatenablog.com

 

 まだ始めてもいないのに自分の時間に対する皮算用が頭を回っている。いや読書だけではない、とか、いやそんな時間ない、とか、いやそこまでする必要ない、とか。やはり、先を見越して長いスパンでやる、というのは難しい。だいたい、一冊本を読んだ後の私は読む前の私ともう違うのである。未来の計画を立てるのは、時と場合によっては建設的ではない。

 哲学を基礎から学ぶとすればどう学ぶか、を考えている。こういう時私はどうしても強度の高い無茶をしたくなってしまう。今考えているのは、中央公論社から出ている『世界の名著』シリーズを古い順から読んで行く、というもの。しかし500ページ以上ある本を80冊近く読むなんて、学者になるわけでもないのにどう考えても非建設的すぎる。

 こういう風に考えて行くとそもそもなんで哲学勉強する必要があるんだろう、なんていう目的論に走ってもうよくわからなくなってくる。ただ哲学が面白いと思ってやっていたのに、目的なんて考え出してしまう。

 

 なぜ未来の計画が立てられないか。ちゃんと読まなければ、見落としがあるのではないか、との恐れからか。しかし今までじゃあちゃんと読んでなかったのだから、私は見落としまみれ、ということにならないだろうか。私は一歩進む前から完璧を求めすぎる。やや強迫神経的に求めすぎる。

 私は学者ではない。学者とは何か。学者とはこの世の考え方や原理、知識を、歴史的に一歩進める仕事、だと考える。人類の知を一歩進めることをする人だと。私はそういう存在になるのではない。私は、一人の凡人に過ぎない。ただ趣味として、一人の人間として、生きることを考えて、よく生きたいと思うだけである。

 故にやはり中公名著を全て読むなんていうことは非現実的である。が、読むこと自体は、いいかもしれない。しかし全てを、順番にしっかり綺麗に読むことは、馬鹿げている。

 やはり原著は原著であり、解説というフィルターを通していないぶん価値はある。読むは読もう。よって、土日休日の哲学読書は、「世界の名著」を読む、これにする。

 

 さて問題は、いかに読むかである。時間に追われて薄く読むような読書はしたくない。できれば一人一人の哲学者をしっかり理解できるような読み方をしたい。今年度の読書方法の目標は多読でなく精読であると決めている。一ヶ月一人と考えるなら、夏休みは一ヶ月に二人とかにできそうなら、15人くらいの思想家、哲学者についてやれる、ということだろうか。

 んーしかしどうしても、私がすでに知っている哲学者に偏ってしまうんだよなぁ。どう選ぶか。

 古代からはプラトンアリストテレスと決めている。ここはいい。中世は今回はパスしよう。よって問題はデカルト以降の近代哲学のうち、どれだけを学ぶか、というところにある。

 大きく、認識論などを扱った哲学者と、社会とか経済の思想を扱った思想家というものがある気がするが、私は思想にあまり興味がない。社会契約とか、天賦人権とか、そういうところに興味が持てない。持てないのもまたどうか、とも思うのだが。プラトンの『国家』にもあるように、しかし、このような国や社会への問いを、外してもいいものだろうか、とも思う。

 いや、やはりこれは、一回外そうと思う。私はまだ社会のなんたるかを経験したわけではない。あと大学の授業で、政治思想、科学思想、経済思想は取るつもりである。そうやって大まかな下地が出来てからでも遅くはないだろう。

 

 いや、違うな・・・各哲学者がそれぞれで、認識論や社会思想を語っているのであって、この人物をやろう、という枠組みでは、どうしても哲学と思想はごっちゃにならざるを得ない、ということになるだろう。と、いうことは、もし私は社会思想ではなく哲学の方に向いているのであれば、「世界の名著」シリーズがよろしくないということになる。各哲学者の語る、哲学に関する(思想ではない)本を読んで行く、ということになるだろう。

 

 うん、なんか、あんまり順番とか考えなくていい気がしてきた。ただ一つ、古典を読もうという、それだけというか。そもそも順番が問われるのは、ある一人の哲学者の概念はほぼそれより以前の哲学者の概念を使っているからであり、以前を知らなければその当人を理解することができない、にも関わらずなんとなくの臆見で理解してしまうことを防ぐためである。

 例えばフッサールは(私の臆見を恥ずかしくも含むだろうが)、ブレンターノもそうだが、デカルト、ヒューム、カントという近代哲学者の概念に大きく影響を受けている。つまりフッサールを理解するためには、デカルト、ヒューム、カントを理解しなければならないということである。

 こう考えると、確かに現代の哲学を理解するためには近代哲学が必要だ、ということになる。が、、、

 

 こうやって小一時間考えてる時間があれば本を読めばよかったのである!無駄!

 とりあえずわかっていることがある。プラトンアリストテレスデカルトは読みたいということだ。まずはここから!それが終わってから次を考えよう。

広告を非表示にする