【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「やるか、やらないか」

 なんか久々に、鬱々とした気分になっている。なんでだろうか。それは多分、この漫画を読んだからである。

  すごく面白い。生活保護受給者と、ケースワーカーとをめぐるお話で、実に多様な人が、最後のセーフティネットを頼って福祉事務所に足を運ぶんだなと思うし、またそういう様々な人たちと向き合って、それでも時に厳しい判断を下さねばならないケースワーカーは本当に大変なんだな、と思った。

 前に職員が過激なジャンパーを作ったことがニュースになっていたけど、気持ちもわかるというか。普通の神経ではできないな、と思う。

 

 問題はなぜ、この漫画の面白さにひかれながら、こんなに鬱な気分になってしまったのか、というところだろう。

 まず、私がケースワーカーだったら、絶対一ヶ月と保たないだろうな、というところが挙げられる。でもなんでそう思うのか、不思議と、あまりよくわからない。ただただ、無理だなーって、思う。

 私自身どちらかといえば、生活保護を受ける側の人間というか。精神疾患があるわけではないけど、メンタルは弱い。この弱さから、人を切り捨てることもできないし、かといってしっかり向き合うこともできない。

 

 前に、自分の心に向き合うことの大切さを、考えたことがあった。人は皆、善悪の基準を自分の中に持っていると思うけど、私はそれが強すぎる。故に善悪に照らしてよろしくない感情は、全て潰してしまっている。自分は何がしたいのか、ではなく、自分は何をすべきか、で行動している。

 しかし矛盾しているがその反面、人の目がなければ自分のやりたいようにやってしまうところもある。バイトをサボるところもそういうことである。善の基準が、高すぎるくせに、スカスカである。

 

 バイトに関して少し、善悪抜きに感情と向き合ってみる。正直、面倒臭いことこの上ない。意味がないとかあるとかそういうことではなくて、ただただめんどくさいのである。掃除も、事務作業も、何もかも。楽したい、と思っている。多分それは、楽できるからだろう。きっと暇でなければ、ここまでは思わないかもしれない。暇と、その暇を遊ぶだけのものがある。故に、それをせずに仕事をすることが、面倒なのである。

 そして接客。これもまた面倒である。説明しなければいけないことはいくつかある。あるけども、結構サボって言っていない。ただこれは、面倒というのもあるが、怖い、というのもある。人の話しかけることが怖い、のではなく、ある特定の表現を伝えることが怖い、のである。それは、こっちの都合を相手に伝えることである。店のルールとか。なぜこっちの都合を伝えることが怖いのか。

 いろんな理由が考えられる。一つ、店のルールは店のルールなのであり、私のルールではない。私の都合ではない。にもかかわらず、私はこの店の自分と私自身を同一化してしまっている。二つ、相手に何か言われることが怖い。論理的には、店にきた以上、ルールに従うのは当たり前であり、むしろルールを伝えないことが説明不足として、トラブルを招いてしまう。しかしもうそういう問題ではないのだ。この瞬間、何かを言われるのではないかと思うことが怖い。この恐怖も、全く論理的には説明できないことである。こちらの要求、守ってね、とかを伝えるのが、本当に苦手である。それはつまり、私が損してもいい、と思っているということであり、その私は店と同化しているので、お客の都合だけで私も、店も、損してもいい、と考えていることを意味する。これは明らかにめちゃくちゃである。なんでこうなるのだろうか。

 

 なんかもう、向き合おうとしても、頭がうまく働いてくれない感じを受けるんだよなーこの手の問いは。さっぱりわからない。何かが、何かが邪魔をしている。説明するだけ嘘になる感覚。なんかおかしい。

 ただ甘えたいだけ、だろうか。まぁ、要するにそういうことだろう。要するに甘えているのである。面倒でなく楽に、不快でなく快で、つまらないのでなく楽しく、生きたいのだろう。これは至極真っ当ではある。しかしこういうエゴによってルールを守れないことを、甘えというのではないか。

 嫌なことでもやらなければならない。なぜ?なぜ辛いことでもやらねばならない?なぜ面倒なことでもやらねばならない?それは私以外の人が関わっているからだ。私だけの人生ならば、なるほど好きに生きればいいだろう。しかし私は関係の網の目の中にいるのだ。それを無視して生きることは、良い生き方とは思えない。

 

 いや、やめよう。要するに仕事してない罪悪感という話だろう。くだらない。仕事をすればいいのである。それで万事解決するはずである。すべきことをしなかったから罪悪感を感じているだけで、やれば全て解決である。そしてその「やる」は、言葉を尽くして語ることではない。それは無駄である。必要なのは思考ではなく行動なのだから。だとすれば、あーだこーだ言って、自己肯定感がなんだの、関係がどうだのが問題なのではなく、やるかやらないか、これだけである。

 やらないことが嫌なら、やらない自分が嫌なら、考えるべきはやらない理由ではなく、やるための方法である。無駄に悩んではならない。やらない理由がわかったところで、やるようになるわけではないのだ。しかしやるようにならねば、結局問題は解決しないのだ。そういうシンプルなところだろう。考えるまでもない問題である。

 

 やるか、やらないか。やらずに悩むくらいなら、やれ。やっても何か悩むなら、そこからこそ考えるべきである。

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