読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「気づきを垂れ流しにしないために:価値妥当の確信形成のための習慣」

 

kizito.hatenablog.com

  これ、やろうかと思っている。

 

 最近の反省はいくつかある。自信がないことは、やらない理由にならないということ、やるということを前提に考えるべきことがあることとか、私の思考はスカスカで、揺るがない前提というものを考えず、物語にしかなっていないこととか、あらゆることを「もの」として対象化して考えがちだが、実際はそれはものではなく「こと」であり、別の思考が必要だとか。あと自分と向き合いすぎで、対象に集中していないとか。

 しかしこれらの問題の根本は、気づきがあるにも関わらず、気づいたもの、発見したものをすぐに手放してしまうことではないだろうか。私は毎度毎度気付きながら、その度にそれを取りこぼしている。つまり忘れている。身についていない。つまり習慣になっていない。どれだけの気づきがあっても、これでは無駄に終わってしまう。

 実はこの、気づきは多いけど習慣化できないからすぐ忘れてしまう問題というのは、この前友人と話し合ってでたことだった。それもまた、忘れていた。こうして私は、自己内省することでの発券の連続の実感に反して、全然前に進んでいないようである。それは例えるなら、すごく栄養がある料理を食べてるのにほとんど消化せずそのままう○ことして排泄しているようなものである。気づきは、消化して、血肉に変えなければならない。

 

 そのために必要なことは、習慣化である。では習慣化とは何か。それは意識的に行なっていたことが無意識的なことになることであり、気をつけてやっていたことが当たり前になることである。私の場合だと行動の習慣というより思考の習慣であるから、そうすることが当たり前という思考の理路を作り上げること、ともいえるだろうか。とにかく、当たり前を作ることである。

 この「当たり前」は、現象学でいうところの「確信」に相当する。つまり、それがどうなのか分からないけど私にはそう思える、という状態である。とすると、習慣=確信はいかに構成されるかを考えればいいということになる。

 それはつまるところ、反復的確信と、間主観的確信である。つまり、なんども同じことを繰り返すこと、それによって毎回毎回その正しさを感じることであり、もう一つは、誰か他者との対話に置いてその正しさを認められること、である。確信とは妥当の確信なのであって、故に反復によりその妥当性を何度も確認すること、そして他者との相互確信として妥当を確認すること、これが当たり前の構成の条件だろう。

 むしろ、このような妥当確信の構成の、一方法として、習慣がある、と考えた方がいいかもしれない。

 

 間主観的確信の形成は、まぁ今シェアハウスに住んでいるし、できないことはないけども。これを具体的な行動に落とし込めば、週一で自分の目標に対してどういう姿勢で取り組んでいるかといった報告会になる、のかもしれない。今まで属してきたボランティア団体とかであったことである。しかし今回はこの方法ではなく、反復的確信形成の方法で考える。

 

 さて、反省点から生まれた気づきは、それなりに私にとって妥当性を持つものである、だろう。私はそれに価値を少なからず感じているが故に「気付き」というのだし、故にそれをただ排泄することに危機感を感じているわけで。しかしもちろん、これを鵜呑みにしてはならないことは十分考えられる。それは安易に、ありかなしかの二元論的思考なのではなく、アップデートも含めて、検討をし続けるべきである、ということである。

 妥当だと認識している気付きがどんどん抜け落ちていく原因は、気づきの多さでもある。1日一つ何か反省点があるような状況では、どれから手をつけていいかわかったものではない。よって、まずは取捨選択して、これと決めたことを一ヶ月やっていく、というスタイルを取ろうと思うのだが、どうだろうか。

 

 いやしかし、一つに絞ることが早い成長を促すだろうか。確信が成立するためには、要するに、忘れないうちにその妥当性を再確認する契機があればいいのであって。しかしその契機は、私がいかなる環境=世界で生きているかによる。例えば人に優しくする、という気づきは、人とあまり関わらない環境ならば、習慣化することは難しい。故に、私が今生きている環境の中で、繰り返しその妥当性を確認することができるような習慣を、作らなければならない。いやーこういうことも忘れるんだろうなー・・・

 

 ついついやりがちな、しかし決してよくない習慣というものを打破し、新たなより良き習慣を身につける。このためにはどうすればいいだろうか。その良き習慣の妥当性を何度も感じるためにはどうすればいいか。それはやはり、生活の中で、その行為や思考の妥当性を意識した上で、何度も繰り返すことに他ならない。妥当性を意識した上で、というところがミソだろう。ただ繰り返すだけでは何にもならない。人間は価値の妥当性に、確信に従うのである。

 とりあえず、やってみるか。やりながら考えよう。ということで、一ヶ月ずつ、何がしか目標を立てて、生きてみることにする。

広告を非表示にする