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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「4月の目標:内を省み過ぎない。外に集中する。」

 時間がない(早く寝たい)のでぱぱっと書く。

 

 今月4月(もう10日経ったけど)の目標は、「内を省み過ぎない。外に集中する。」である。この妥当性を検証する。

 

 私はここ最近、やはり自分と対話しすぎである。しかし生きていくことに必要なことはこの我ー我関係だけではなく、我ー世界関係、我ー汝関係である。仕事をしながら仕事に向き合わず自分と向き合うことが良いことか?他者の話を聞きながら自分と対話していることは本当に他者の話に耳を傾けているといえるか?言えないだろう。読書をしながら考え事ばかりして本を理解できるか?できないだろう。

 意識というものは基本的に、共時的には一つのものとしか向き合うことはできない。私と向き合いながら他者と向き合うことは不可能である。だとすれば、向き合うことの弱い仕事、対話、読書というものは、どうしても薄い結果しか生まないのではないだろうか。それが良き生、単位時間あたりの価値を高めるとは思えない。

 何より全然論理的に説明できないが、対象に対して集中している時というのは、なんというかこう、生きてる、という感じがする。ちゃんと根を下ろして生きている感じがするのである。嘘くさくない。この感覚の根拠がどこにあるのかはわからないけど。おそらくこれが一番の妥当性の根拠になる。この、生きている、しっかり生きているという感覚。一日の時間の中でどれだけを、集中して、対象と同一化して、生きてる、という実感の元に生きられるか。それは世界が、他者が、私の中にぐーっと入ってくる感覚であり、また私が世界や他者に対して思いっきり関わっているという感覚、でもある。

 内省は大事、大事である。しかし内省するなら、内省に集中すべきなのである。全部中途半端にするからよくない。そして内省するならば、他の何とも向き合っていない状態ですべきなのである。授業中に考え事で授業には集中できないだろう。

 

 以上、集中とは、私を中心とした、対象(私も含む)との関係の強い実感である。この強い実感は、自分の生に対して確かな、地に足をついた実感を与えてくれるものである。しかし私は自己と向き合いすぎるあまり、外と向き合うことがおろそかになり、同時に全てと向き合うことがおろそかになっている。よってこの悪しき習慣を取り払うためにも、「内を省み過ぎない。外に集中する。」ということを今月の目標とする。

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