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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「野矢茂樹『心と他者』 第2章の要約と感想」

 

心と他者 (中公文庫)

心と他者 (中公文庫)

 

 

第二章 <内界>という神話

 

 第一章では主客二元論による、主観=内界という「意識の繭」に閉じ込められることで、客観に到達できなくなったこと、それを現象主義が乗り越え、さらにアスペクト概念によって乗り越えるところを見た。

 しかしまだ問題は残る。心である。相手の行為を見ても、それが相手の心を表しているとは限らない。自分の腕をつねる、この赤みは身体だけども、この「痛み」そのものは他者には見えない私の心にある。

 「『各人がその人にしか体験しえない内なる世界をもっており、それがすなわち心なのだ』という描像を、私は『内界モデル』と呼ぶことにしたい。」91-92

 このモデルの批判を試みる。

 

※もっと正確に言えばここから展開される議論は、他者の心と私の心をめぐる、心身二元論批判である。まず他者から、次に私。

 

1、心身二元論

 外界=身体、内界=心。心は身体に宿る。「身体の状態が他人にもひとしく知られうるのに対し、心の状態はただ当人のみが知りうる」93。

 これを批判するための思考実験・・・ロボット

 人間と全く変わらない動きをするロボット、しかしこれには心がない、とする。そしてある日、神によって心が宿ったとする。しかし何も変わらないのではないか。まずこれに心が宿ったことをどうやって知りうるのか。さらに言えば、他者も同様に、心があることをどうやって確認しうるのか。

 

 心身二元論=心は内界、身体は外界、故に私は他者の身体しか知りえない。そしてその身体から間接的に、心の状態を知るということになる。いかにして?

→類推説

 「私の心の状態がαであるとき、私の身体の状態はAである。そこで、他人の身体の状態がAであるならば、その人の心の状態もαであろう」96

 しかし、「類推によって他人の心の状態を推し量ろうとするとき、すでにわれわれはその相手に心があることを前提にし、さらにまた、心身の随伴関係が私とその他人とで同型であることも前提にしている」97。

 よってこの前提の問いに対して類推説は無力。心があるのかないのか、心身の随伴関係は私と同じなのかどうか、これに対して類推説は何も答えられない。

 かくして心身二元論においては、ロボットも、他者も、その心は完全な不可知、ということになる。

=他我の不可知性

 

 では、「心の存在は観察などでは知りえない。だが、心の存在は経験的に根拠づけられたものではなく、信じるものなのだ」99とする。つまり心の存在は枠組命題(蝶番)であり、鵜呑みにされるものだとする。

 しかし、他人も心を持つことを信じるというとき、何を信じればいいのか。

→私の心、例えばこの「痛み」の感覚、これが相手にもあることを信じる。

→が、この想定は不可能。なぜなら、「彼らの想定する『痛み』が、その意味の内にそれが『私の痛み』だということを含んでしまっている」100-101から。

 私の痛みを他人に移植してもそれは「私の痛み」である。では「他人の痛み」はどのようにして想像すればいいのか。何をどう想像しても、それは「私の痛み」である。

 これは、「私の痛み」と「私の財布」という表現との類似に騙されている。財布は別の人の所有になりうるが、痛みはそうではない。

 「心身二元論にとって痛みの感覚とは私が感じるかぎりのものでしかない。それゆえ、私の痛みを私から引き離し、誰のものでもない痛みを作ろうにも作れないのである。誰のものでもない痛みとは端的に空無でしかない。」103

=他我の無意味性

 

 では、他人の心は完全な不可知、かつ無意味なのだろうか。そんなはずはない。問題は、心身二元論にある。

 

 

2、他我のアニミズム

 二元論の足し算図式。

「彼の手があがる+彼の意志=彼は手をあげる」

「身体の状態  +心   =他者」

「心なき描写  +心   =心ある描写」

 しかしこの「心」が了解不可能なのである。故にこの足し算図式も成立しえない。すると「問題は、この二つの描写法、心なき描写と心ある描写の関係を明らかにすることである。」111

 

 「問題の根は、ひとつの事態に対してつねに二つの描写法が可能であるように思われるところにある。」112

 つまり、やろうと思えば、「彼の手があがる」とも「彼は手をあげる」とも、言えてしまう。逆に物に対しても同じように、どちらの描写もできてしまう。

 しかし通常、われわれは人物に対して、心ある描写を取っている。心の有無の了解すら取れないにも関わらず、である。まずはこれを認める。心は身体からは理解できない。じゃ魂のようなものを持ち出すかというとそれも違う。でも、心ある描写をしている。

 「『心』と呼ばれるような何ものか(脳のようなものであれ、魂のようなものであれ)があるから心ある描写を採用する、と考えるのは誤りなのである。」115

 

 ならば、心ある描写をとるか心なき描写をとるかは、対象のあり方とは無縁だろうか。

 「どちらの描写をとるかは最終的にはわれわれの態度、生き方の問題なのである。」116それは「魂に対する態度」であり、「アニミズム」である。

 しかしそれは個々人の問題というよりは、歴史を通して形成されてきた態度だということである。そして歴史を通して、伝統的にわれわれは人間に対して「心ある描写」をするように定着してきた。そのことに根拠などはない。「手があがる」ではなく、「手をあげる」なのである。

 「現在のわれわれにとって、人間はけっしてたんなる物ではない。あるいは物プラス心というのでもない。人間は物とは根本的に異なった<心あるもの>なのである。」118

 

※この節が全く納得しかねる。有情描法と無情描法の違いに、心を根拠としておくことができないのは理解できるが、それはただ伝統的にそうだったのであって根拠はない、なんてことはおかしいのではないか。今までそうだからそうでした、では、問う意味がない。

 いや、ここで言っているのは、われわれは他者を心身二元論的に認識しているのではなく、心と身体を分けずに持つ<心あるもの>としてみている、という現実の認識である。この心身未分化の<心あるもの>を、「心」と「身体」に分けるな、ということ。しかし、無情でなく有情で、<心あるもの>として捉えてきました、その根拠は伝統のみで、ありません、はおかしい。まぁここから先説明はあるんだけど、それにしても「ない」という理由がわからん。

 ただ、個人的にはこれは優れて現象学的である気がする。他者に心はあるのか、ないのか、わからない、疑える、しかし「心があると思っている」、<心あるもの>として、有情描法を用いている、これだけは疑えない。ここからスタートするというやり方が、現象学的ではないか。

 だったら心身二元論の背理を説明して、でも不可知?無意味?いやいや他者の心、あると思ってますよね?それは疑えないですよね?という論理でよかったのではないか。

 いや違うな。これだと、他者を身体+心で捉えてしまう。心が了解不可能であるにも関わらず有情描法を取っているという事実が、心の有無の認識とは関係なく相手を<心あるもの>と捉えていることになる。

 心は了解不可、にも関わらず有情描法で捉えている。その根拠を、「通常」とか、「伝統」とかで説明するから、納得がいかないんだな。確かに根拠はなくてもそう認識しているし。

→とにかくここのポイントは、心身二元論では心の有無について了解がとれない、にも関わらず、<心あるもの>として他者を認識している、意味付けている、という点にある。心身二元論はまだ乗り越えていないが、この先の説明で乗り越えるだろう。

→大森のメモp.367に、心身二元の以降は無駄である、他の鵜呑み肯定という小さな歯車、と書いてある。おそらく私の言わんとしていることと一致。

 

 

3、独我論

※ここから、他者の心身二元論ではなく私の心身二元論の批判。

 

 「心あるものとされたりされなかったりするのはつねに私ならざる他のものたちであって、この私はつねにその原点として、心あるものなのではないか」119

  「他人に対しては内界モデルを拒否しておきながら、なお自分自身に対しては、心とは私のみが体験しうる内界であると考えようとしてしまうのである」119

 大森のアニミズムは、「私のアニミズム」であり、他者に心を吹き込み、心を創るのは私である。他人の心が不可知だろうと、この私の「痛み」は残るのであり、故にこの心も残る。心ある私が、心ある他者を創る。しかしいかにして?結局類推説に逆戻りである。故に私の心もまた、前提にはできないのではないか。

 

 「だが、それでも、たとえすべての他人が心なきものとされても、なお私だけは心あるもの以外ではありえない、その実感はぬぐいされないように思われる」123

  「だが、こうして、私に感じられるこの痛み、私に体験されるこの悲しみ、これこそが『心』なのだと考えると、他人にもこの<これ>があるということが私には理解できなくなってしまうのである。」124

 しかし、これを受け入れ、つまり私には心がある、しかし他者のそれは不可知、ということを受け入れたとする。すると、「心とは、本質的に私に属するものでしかない」125ことになり、独我論となる。

 「だが、独我論においてはむしろ心も消失するのではないかと思われる。」125

 心とは、親子のように、「あるものの性質を述べた言葉ではなく、他との関係の在り方を述べた言葉なのではないだろうか。『心』という概念と、『心ある他者』という概念は本質的に結びついている。それゆえ、『唯一の私の心』という表現は矛盾であり、『私の心』は『他者の心』と対になってしか概念化されないと、私には思われるのである」126

 では独我論のままだと、どうなるのか。

  

 「あの犬は黒い」は犬の性質の描写

 「あの犬はこわい」は心の描写、ではなくてこれも、犬の性質の描写では?

 反論:「あの犬は黒い」は客観的だが、「あの犬はこわい」は主観的、よって「こわい」は性質の描写ではない。

 しかし「主観的」とは、他の人にはこわくなくても私にはこわい、ということ。しかし今、他者の心は不可知という独我論に立っている。ならば、「他の人にはこわくなくても」という認識はおかしい。

 「『黒い』はあの犬の性質の描写だが、『こわい』は私の心の描写だと、どうにかして言ってやりたい。ーーだが、この感じはわれわれが心ある他人を認めている世界に住んでいるからにほかならないのではないだろうか。」129-130

 

 主観的な意見の不一致は、そのまま放置されうるが、客観的な意見の不一致は、放置できない。このように、「他人との意見の不一致とその取り扱いに関するわれわれの実践の在り方の差異が、一方を『客観的』とし他方を『主観的』とすることの内実にほかならない」131

 しかし今想定しているのは他者の心が不可知の独我論。故に意見の不一致はなくなる。よって主観と客観の区別もなくなるのではないか。

 

 反論:「黒さ」は犬と共に去るが、「こわい」は犬が立ち去った後も残っている。どこに?心にではないか。

→暗さはどこにあるか。それは状況として暗いのである。同様に、「『こわい』というのも漠然とその状況に対して言われているのではあるまいか。」133

 つまり、私がこわい、悲しい、恐ろしいということは、私の心がそうなのではなく、そういう状況なのである。つまり悲しい世界が立ち現れているのである。無色の世界の中に、感情を抱いた私がいる、のではない。

 「感情は、世界=外界の内に位置付けられる心=内界の中(スープの油玉の中)で起こっている現象ではなく、世界そのものの相貌として捉えられる(スープ全体の状況)。」135

 

 よって「異なる感情を抱いている他者たちは、異なる内界を抱いてこの世界=外界に住まう者たちではなく、むしろ『異なる世界風景』に出会っている者たちなのである」135

 独我論とはこの異なる世界風景との出会いの拒否である。残るものは?私のこの世界のみである。この世界とこの風景とが唯一のものとして残されている。どこに私の心がある?

 「他者なき独我論的世界においては、心の描写と世界記述との文法は消えさり、感情描写もまた、世界記述と変わりないものとなるしかないのである」136

 「痛みや恐怖や悲しみがあることがすなわち、私に心があることなのではない。」

 「たんなる世界の眺めであったものが私の心の眺めとなるには、心ある他者の存在が不可欠なのである。」136-137

※p135の、世界現象から、なぜ他者も世界現象に出会っていると帰結できる?独我論では主客未分となる、故に主客を分けている以上、独我論ではない、これはわかった。しかしその出会いが、他者の相貌であるという根拠はない。私が世界に出会っているから、というところからの類推でしかない。しかしこれは先に断じている。

 

 「外界から隔離された内界なる領域などありはしない。」142

 「他者の心とは、それゆえ、この外界の中に点在する異なる内界ではなく、この世界に対する異なる眺め、異なる相貌にほかならない。」142-143

 つまり独我論とは、「異なる眺め、異なる相貌に出会うことのない、一枚岩の世界風景であることになる」「この眺めはすべて世界そのものの風景となる」「すべては世界=私の世界についての、世界記述にほかならない」。故に独我論的世界には私の心は登場せず、「<無心の世界>とでも呼ぶべきもの(すなわち、<私>も<心>もまだ語られる余地のない『純粋な実在論』的世界)なのである。」143

 

 よって問うべきは、独我論的な無心の世界に、いかに心が登場するかであり、その契機こそ<他者>なのではないか。そして「心」とは何か、「他者」とは何かを、問わねばならない。

 

独我論を乗り越える形で、他者に出会う。これが、「2、他我のアニミズム」で示されなかった、「心あるもの」の根拠ではないか。これはこの後、アスペクト論としてさらに展開されていくだろう。

 この節のポイントは、主観と客観、そして世界現象である。この点について、大森と野矢のメモ書きを少し検討したい。

 p131において大森は、「犬がこわい」が客観ではなく「犬が黒い」が主観になると論じるべきでは、とある。また他人の意見との一致不一致がなければ主客の区分はなくなる、ということに対し、心的経験と非心的経験との区別をあげ、非心的経験が空概念になると述べている。つまり大森は他者に出会わなければ、心的のみ=主観のみ、ということになると考えている(故に黒いも主観)。

 またp137にも、他者の相貌に出会わないことに対し、非心的眺めが考えられぬこと、つまり心的のみが残ることが問題だと述べている。

 私はこの、他者と出会う前にあるものは、心的か非心的か、主観か客観か、という議論はナンセンスだと考える。そこにあるのは確かに、状況としての感情や、実在によって構成された、世界現象である。しかしこの世界現象は、今の私たちが考えられるような世界=外界、ではない。なぜなら外界/内界という区別もまだついていないからである。

 このような、主客未分、心的/非心的未分、内/外未分の現象状態から、他者の相貌に出会うことによって、同じ相貌と、異なる相貌が分かれる。つまり、「<同>現象」と、「<異>現象」とに分かれる。そしてこの「<同>現象」こそが、客観であり、非心的経験ではないだろうか。そして「<異>現象」こそが、主観であり、心的経験ではないだろうか。

 いや、しかし例えば、みんなが怖いと思うものがある。それはみんな怖いのである。にも関わらず、それはやはり主観とみなされる。つまり、他者との異同だけが、主客を決めるのではない、ということになる。それも大きな要素だが、それかつ、やはり知覚か感情か、という点もある。やはりまだ曖昧。この意味でp143に大森が、他我の考えが内界を促進することは認めても必然とは言えない、と言っているのだろう。

 知覚や感情は私にどのように現れるか、かつ、それは間主観的にだろうかどうか、この2点の組み合わせで、主客は決まってくる。思っている以上に絡み合っている。大切なのは、間主観性だけで客観が、外界が、決まるわけではない、ということである。

 もう一点。独我論を推し進めることで他者に出会った。しかし、他者に出会う以前のことについては、どうしても理論的フィクションに止まらざるを得ないのではないか。私はすでに、間主観的確信を抱いて、世界を眺めている。だからこの世界の眺め方を分析することで、決して私の独我論的内界だけではなく、類推説で他者の心なんてわかんないと言いつつ、しかし心ある他者に囲まれた私を発見することができたのである。しかしわかるのはここまでである。私の心の成立には他者の相貌と私の相貌が出会いがあった、ここまでである。もし出会っていなければ、の想定は、フィクションになる。なぜならば出会っていなければ私はそもそも生まれていないのであり、私なき世界を私が思考することは不可能だからである(いや、でも論理で可能か?)。少なくとも、純粋な実在論としての世界現象とかは、経験不可能な想定である。私の世界現象の中にはすでに他者がいた、他者の世界と出会っていた、わかるのはここまでである。

 問題は、その出会い方である。世界現象といっても私はその世界に様々なレベルでの意味付け、妥当を行なっている。その中で、他者の何が私の何と出会うことで、心が生まれたのか。これはこの先の話だろう。

 

p.s

 フィクションである、というのは違う。経験には「私」は必要ない。むしろそれこそ、鵜呑みにされる実在である。故に他者に出会わない独我論的世界とは、一切が鵜呑みにされる実在としての世界風景なのであり、故に無心の世界なのではないだろうか。

 

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感想

 

 全体の流れは、、、

 他我認識における心身二元論批判

→他我の不可知性と無意味性

→他我の鵜呑み、実際<心あるもの>とみなしてる

 

 自己に対する心身二元論

→やはり他我は認識不可

→私の心だけ=独我論

→方法的独我論により、主観と客観の区別がつく=他我と出会っている

→主客分化の手前にあるのは世界現象、異なる世界と出会うことで分化する

→世界と世界が出会うことで、客観世界、主観的心、他者の心が生まれる

 

 こんなイメージ。

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 そうすると「私の心」とは、「他者の心」ではないこと、ということになる。やはり否定主導。これはこの後にあるかな?

 問題は重なっている部分。同じく怖いでも、お互いの心がそう感じている、と思っている。でも例えば、懐かしい風景とか、悲しい夕日とかは、感情の話をしているのに外界の話になっている。なんでだろうか。

 みんなが感じることだろうという確信がある。しかしその中にも、心と心が一致しただけ、と取ることもあれば、世界の側の性質、と思うこともある。なんでだろ。

 

 

 

 

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