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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「信頼と尊敬が素直の条件」

 考える必要のあることって、なんなのだろうか。

 

 最近、大きな挫折を経験した。でもそれは同時に大きな学びだった。それは、考えてもできないことはできない、ということであった。

 考えることの意味とはなんなのだろうか。考えても、その答えはすぐに忘れてしまうし、考えても、その答えを持っていても、結局現実によって実践的に正解を身体化していなければ、できないものはできない訳で。野球の解説書を読んでも野球が上手くなるわけではない。

 しかし今の私には実践の場がない。するとひとまず、実践に関することは、今考えるべきことではないということになる。考えてもそれは、経験なき推論、つまり机上の空論になるからである。

 

 じゃあ、今考えるべきことは何?

 

 考えることが逆に生を縮めているという側面を、もっと理解すべきである。なぜなら、我々は語りうるもの以上のことを知っているからである。私は自分が経験したことを、人にも説明ができるように、言語化するということを心がけてきた。しかしその努力はいつしか、考えることこそが現実である、言語化できることこそ現実である、そして言語化できないことは根拠がなく、現実ではないと、勘違いしていたのではなかったか。

 

 今日、とても面白い話を聞いた。価値観を広げる話。急速に自分を成長させるための話。

 今目の前に、あなたが最も尊敬している、信頼している人がいる。その人がこれを飲んでみ、という。そこには紫色の液体が入っている。

 人間は今まで経験してきたものをデータとして蓄積し、それを引っ張り出すことによって目の前の事象を解釈する。この紫色の液体は、ファンタグレープか?それとも何か毒々しいものか?などなど。

 

 しかし、目の前にいるのはあなたの尊敬する人である。信頼している人である。だとすれば、その人があなたに対して、何か不利益のあることをするだろうか。しない。しないからこそ信頼しているのである。ということはその信頼と尊敬を根拠に、自分の価値観では判断的ないことでも、よしとすることは合理的である。

 尊敬と信頼を根拠に、自分の価値観の外側にあることも無条件に受け入れる。これが素直さの内実である。そういう話だった。

 

 だとすれば私のように、自分の価値観から飛び出ることを恐れる人間は、思考の中に閉じこもっている人間はどのように説明できるか。簡単である。信頼していないのである。相手を尊敬も信頼もしていないから、自分の過去や価値観をのみベースにして世界を解釈する。それしかないからである。

 更に言えば、自分の無意識的な知識、つまり言語化できない、意識化できない、デカルト的自我としての<私>以外のものも、信頼していないことになる。自分の選択を、他者にも、無意識にも、任せることができない。こうして私は、<私>のうちに閉じ込められているのではないだろうか。

 これは非常に、非常に狭いと言わざるを得ない。無意識的私は、<私>にとってその全てを把握できないという意味でもはや他者と言っていい。外の世界の他者も同様である。全てを把握することのできない者に自分を預けること、これができなければ、私は<私>からしか物事を判断捨ことができない。しかし、語れる範囲でのことで世界を処理するのは、やはり狭すぎるのではないだろうか。

 ではどうすればいいのか。意識化できない、言語化できない、つまり論理的な根拠がない者に対して自分を預けるには、信じるほかはない。信じることには根拠はいらない。根拠があることを実行するのは信じるではなく知るということである。

 

 私が知ることができるのは<私>のみである。<私>の外側にある、意味を付与する者、無意識的自我、そして他者は、知ることができない。では私は<私>のみを根拠に行動すべきか。それはできない。なぜなら、狭いからである。事実、無意識的私は存在しているし、彼特有の仕方で世界に意味を与えている。他者しかり。それを無視することはできないはずである。しかし私は無視し続けてきた。ここに、考えることの苦しみがあったのではないだろうか。

 もっと私は<私>を、無意識的な、つまり語り得ない私にとか、他者に対して、任せるべき、信じるべきなのである。

 

 では、いかにして「信じる」ということは可能だろうか。それは論理的根拠がいらないことである。「信じる」を確信と言い換えるならば、それに必要なのは間主観的確信と、反復可能性としての確信である。つまり、昨日も今日も明日も、その通りだと思えれば、私はそれを信じるに値する。そして私以外の誰かもそうだというなら、私はそれを信じるに値する。

 これは、過去の私、今の私、明日の私を、それぞれの時点で意味づけを行う別々の私と考えるならば、反復もまた間主観的だと言える。様々な意味づけを行う主体の意味づけがなんども一致すればするほど、私はそれを信じることができるということである。しかしこれは逆も然りであり、そして私はその逆の方で信じているのである。つまり自分の無意識も、そして他者も、信じるに値しない、という方向で、なんども確信を繰り返し、信じているのである。

 この反復を変えなければならない。しかしどうやって?それは無意識に任せ、他者に任せることによる成功体験、これが正しかったという体験を、繰り返すほかはない。しかしそれもまた難しい。

 

 様々な意味の重ね合わせ、これが確信を作る。これができれば、信じることはできるし、故に素直になれる、故に成長できる。思考はあくまで、それを可能な限り言語化することでしかない、もしくは推論でそこから先に一歩を照らす、とか。

 

 いやー眠くなってきた。続きはまた今度。

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