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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「知ることと信じること」

 

kizito.hatenablog.com

 

 信じる、ということはどういうことか。知るということはどういうことか。

 

 一つ思うのは、私は、「信じることには根拠がない」と思っていたが、これはどうやら違うだろうということである。根拠がない、のではなくて、根拠の種類が違うのである。

 知るということはこの根拠に論理がある。論理的に説明ができて初めて信じるに足るわけだ。しかし信じることにも、論理的ではないにしろ根拠がある。それは現象学の確信成立の条件で説明ができる。何度も繰り返されること。例えば私は今日まで生きてきた、この生を繰り返してきたからこそ、明日も死なないという確信を持っている。しかし明日死なないということは、論理的な根拠はない。明日は死なないだろうと思いながらほとんどの人は亡くなるだろう。

 

 だとすれば、私が意識としての、考える我としての<私>のみを信じていたというのは、論理的根拠にのみ信頼を置いていたということになる。そして論理的に説明することのできない、語り得ないが知っている部分つまり無意識、もしくは他者に対しての、反復可能性としての信頼はあまり持っていなかったことになる。いやむしろ、私の思考はこの反復としての根拠に論理のメスを入れて、解体する方向に働いていたと考えるべきだろう。

 

 ここで信じるとは、価値の妥当について言っていることである。良い悪い、という点において、私は私の選択を私という思考ではなく無意識や他者に任せていいのか、その価値があるのか、ということに対しての信頼である。私はこの価値への信頼には、論理的根拠が必要であると、そう思っていた。しかしそうではないようである。価値の信頼、すなわち妥当は欲望と相関する。つまり欲望に相関した価値としての意味、これを何度も反復的に経験することができれば、それが私の信頼になる。

 もっとざっくり言えば、昨日も、今日も、そして明日も、あいつは俺を裏切らなかったという経験が、十分な他者への信頼になり得る。これを論理的に考えてしまったら、昨日も今日もあいつは俺を裏切らなかった、でも明日はわからない、ということになる。99年間1日足りとも裏切らなかった人も、100年目には裏切るかもしれない、そう考えることもできるのである。

 信じることに論理的根拠を持ち出してしまうと、ほとんどのことは信じることはできない。特に時間軸で考えると未来は不確定なのだから、未来に属することは全て信頼不可能になる。私が信じるために持ち出す基準は、過去の反復ではないだろうか。

 

 いや、確かにそうだ。しかしそれでも私は疑ってしまうだろう。おそらく、疑うという行為もまた、私の欲望に相関して現れている。傷つくことを恐れるのだ。無意識に身を任せて何かを失敗してしまうこと、安易に他者を信用して裏切られることを恐れる。故に、疑う。本当に大丈夫なのだろうか、と。石橋を叩いて渡る、というやつである。

 しかし大丈夫かどうかを問うならば、大丈夫の根拠たるものを持っていないといけないのではないだろうか。これではただの懐疑論である。なんだって疑える、なんだって本当のことはない。くだらない懐疑論である。

 

 論理的にはなんだって疑える、しかしそれでも疑えない範囲があるよね、そうやって現象学は考えてきた。私ももっと、この視点を持たなければならないだろう。

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