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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「自由である他者を認めるということ」

 「なんか、好きな人がいるんですけど、その人と付き合う自信がないんですよね。本当にその人のことを幸せにできるのかどうか、というか。だっていまのところそういう要素は俺にはあまりないし。仮に告白して受け入れられても、そのあとその人を不幸にする可能性は大いにあって。その自信がないから、告白もできないんすよね」

 

 「でもさ、相手にも断る権利はあるわけじゃんか。嫌だったら、ああこの人とは一緒にいても幸せにはなれないなと思ったらさ、そこから話し合うなり、別れるなりすれば言い訳であってさ。幸せってのは与えるとか、与えられるじゃなくて、二人で救って行くものじゃないかな。IかYOUじゃなくて、WEにあるんじゃないかな」

 

 昨日、先輩に恋愛相談して、こういう答えをもらった。至極当然である。目から鱗とはまさにこのことだなぁと。むしろこんな当たり前を、なんで俺は今まで考えなかったのだろうと思った。

 ここには私の結構根深い問題があるような気がする。だからちょっと考えてみたい。

 

 こと恋愛に限らず、私は人付き合いにおいて、私はどうするか、を考える。まるで関係性は私のいかんによって全てが左右されるが如く考える。しかし関係一般に対してのそのような考え方が、間違いだったのではないだろうか。

 関係。人と人の間にあるもの。なのであれば、その関係とは、双方の自由と責任と権利の元に存在するはずである。私がどうするか、だけで終わる関係なんてあり得ないのであって。なのに関係の責任を全て私は、私に還元していたように思える。それはエゴではなくて、私がみんなを助けなきゃとか、そういうところも含め、である。私は良きにつけ悪きにつけ、独りよがりだったということだろう。あーこれは、あいつにまさに感じていた嫌悪感である。誰かのここが嫌いは、だいたい自分に当てはまる。

 

 私は、自由であり、相手もまた、自由である。だから、一緒にいたければ一緒にいればいいし、一緒にいたくないならば文句を言えばいいのである。別れればいいのである。なぜこんな単純なことがわからなかったのだろうか。相手もまた自由であり、私の行いに対してちゃんとノーと言えることがわかれば、私もまた自由になれる。本当は嫌だと思っているのではないか、という意識が強ければ強いほど、私は自分が自由に振舞えなくなる。自由とは、自分に正直であるということなのかもしれない。正直であることができること、なのかもしれない。

 

 なんかでも、なんか引っかかる。だとすればなんで、私はそういう人間に対する目線を、持っていなかったのだろうか。私は他者をどう見ていたのだろうか。

 いまいち頭の中で整理できない。何がどうなっていたのだろうか。そして何をどう考えれば、私はちゃんとした関係に対する考えを持てるのだろうか。

 

 例えば、相手のこういうところがなんか嫌だ、だとする。それをいうことを、恐るとする。しかし言って、もし受け入れられなければ、断ってくれていいわけであって。それが当たり前であって。そうでなければ、その人には自由がないことになる。私が何かを言って、本当は嫌だけど、嫌な顔をせず受け入れる人がいたとする。私はその人に、もっともっと要求するようになるだろう。そしてその人はもっともっと我慢するようになるだろう。破滅である。

 お互いがお互いの自由を認めていて、嫌なことは嫌だと言えるのであれば、こういうことにはならない。いやしかし、それには前提がある。なぜならエゴ的なことを押し付けられても、それはイエスとは言えないからである。

 みんなが自分と同じとする。このくらいはみんな自分でするだろう、だから私もこれぐらいのことは自分でやる。そういう感覚、だろうか。いやー難しい。これはなんだ。うまく言語化できない。

 

 ただ言えることは、関係に対して、私だけで全てが完結するなんてことはあり得ないということである。そしてそれは、他者に対する私の不可侵の領域である。それはどうしようもないから私はどうしようか、ということも十分、考えるべきことではあるんだけども、その不可侵の部分に、他者の権利というものはある。だから関係の責任は、私だけに還元できるものではないのだ。その人の責任も当然あるのだ。私は非常にそういう意味では、倫理的独我論者だったということになるだろう。私がすべきことはもちろん、ある。しかし私ではない他者の領域が、それによってなくなるということではないのである。彼らもまた彼らの自由と責任がある。故に、私はその自由を尊重するし、かつ、その自由を使っている以上、自分の責任もちゃんとおいなさいよ、ということなのではないだろうか。

 私がどうすれば彼/彼女を守れるか、幸せにできるか。これは一見、優しい態度である。しかし、それだけしか見ていない、私がどうするかだけしか見ていない時、私の世界から他者は締め出されている。そこには自由の主体としての他者はいなくて、「もの」としての他者しかいない状態である。自由を認めているかどうかではなく、そもそも、<自由である他者>というものが存在していなかったのではないだろうか。これは実に、実に失礼な態度である。まずはこういう人間観をしっかり作ることだ。この延長線上に、自分の人生に自分で責任を持てるように、という意味での、人を大切にするということがあるのではないか。

 

 だとするならば、自分の人生には自分で責任を持つべきだし、そういう私には不可侵の自由を持つことが他者の他者たる条件であるならば、その上で私にできることはなんだろうか。自由を認めつつ・・・

 

p.s.

 私は、全部私が悪いと、そう思っている節がある。これも全くのお門違い。そんなわけはないのだ。それは罪をかぶることの自己犠牲的、博愛的行為ではない。自分に全て責任を追っかぶせることは、つまり、責任と表裏一体の自由を他者から奪っていることに他ならない。じゃやはり、関係における責任って、何?どこまでが私が悪くて、どこまでが向こうが悪い?罪の境界線はどこ?

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