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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「田中美知太郎、『世界の名著6 プラトンⅠ 』、中央公論社、1966」②

 

世界の名著〈第6〉プラトン (1966年)

世界の名著〈第6〉プラトン (1966年)

 

 

 これを読んで、リュシスを要約しようと思ったんだけど、挫折・・・。てか対話編ってどうやって訳すればいいんだ。

 文学にも似てる、のかな?だとすれば「これってどんな内容?」と聞かれた時に説明できる内容であればそれでいいということになる。

 

 リュシスは、ヒッポタレスとクテシッポスの元にソクラテスが訪れて、ヒッポがリュシスという美少年に恋をしていると聞く。どうすればいいですかと聞くヒッポに、じゃ私に会わせなさいというソクラテス。そしてリュシスの元にいき、友とは、という問いを立てて議論するというもの。

 これが論述とかならば、確かにまとめることもあるかもしれない。しかしこのリュシスは、結局最後には結論が出ないのである。議論があっちへ行ったりこっちへ行ったりで結局取集がつかず、最後にはよくわかりませんで終わるスタイルである。これをどうまとめろと?

 「友とは、という問いを立てて議論するというもの。」と書いた以上、その内容をまとめる必要があるのか。うーんでもそれもなーどうなんだろ。いまいちピンとこない。

 

 おそらくだが、哲学の入門においてはプラトンってのは、何を行ったかが重要視されるというか、イデアとか想起説とか哲人政治とか。しかし、私が思うに彼の著作の良さは、哲学の内容ではなく哲学の方法にあるのではないかと思う。命題に対して、経験や推論、具体や抽象、新たな概念を駆使して、吟味を重ねていく。そしてそれを二人で行っていく。このスタイルこそが学ぶべきところなのではないだろうか。

 なぜその結論に至ったかという点においてプラトンから学ぶことはあまりないように私には思える。イデア論も知っているし、想起説は宗教的世界観を前提にしている。しかしそのような内容というものは、そこに至る過程における前提からこそ生まれたものである。前提と方法によって内容が提出されたのであれば、前提は現代に通用しない以上、内容=結論も現代的ではない、しかし、その方法は、方法こそはまさに、哲学することとして、参考になることなのではないだろうかと思うのである。

 

 ソクラテスプラトンから学ぶべきはまさにこの哲学するということそのものであり、哲学という実践の方法であり、またその際の姿勢である。無知の知とか。だとすれば、である、内容を要約する必要性はやはりない気がする。むしろ、読んで、落とし込んで、その実践としての哲学を、私もやっていくことこそが必要なのではないだろうか。哲学の歴史から見れば最も古い時代にいるソクラテスの哲学が、なぜか現代の哲学よりも、やはり「生きる=哲学する」という点で、その姿勢の点で、何かこう優れているという印象があるんだよなー。

 

 いや、ただしかしそれは、それこそリュシスのように、内容としては特に学ぶところがない(なぜなら友愛について結局何も語っていないから)からでは?いや、そんなこともない。「欲望」という根本に到達していたのも面白かったしなー。

 

 そう考えると、方法としての面白さと、内容としての面白さというものがある、ということになるのか。うーん。

 

 どう読んでいけばいいだろう・・・。

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