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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「レジュメを作る必要性」

 モヤモヤしてきた。考えよう。

 

 今年の読書の目標は、精読である。深く深く理解する、ということである。そのための方法として、レジュメを作る、ということを位置づけていた。

 しかしレジュメとは、一体なんだろうか。それは著書内の内容の要約である。これは小説とかの要約ではない。ではなぜ要約する必要があるのか。

 普通、本の中には筆者の主張というものがあるのであって。そして筆者はその主張を説得力を持たせるためにあの手この手で書いているわけである。その論旨の道筋をしっかり理解するために、私はレジュメを書こうと思ったわけである。だから、その人が何を結論として言っているのか、ということだけをまとめたところで、それはレジュメにはならない。なぜそう言えるのか、という流れを、まとめなければならないのであって。

 つまりレポートの書き方に似ている。それを逆にやるということである。結論と、それを説明する論旨とを、まとめていく。これが要約である。

 

 だとすればプラトンの対話編はどう要約すればいいということになるだろうか。ここには複数の登場人物がいて、彼らの議論を私が見ているという構図になっている。一人の人間が私に物語っている、そしてその内容を私が要約する、ということではない。私の前には複数の人間の議論がある。これをどう要約するのか。

 しかし基本的にはソクラテス一人の言っていることが内容としてはあるのであって、では彼の言わんとしていることの内容を要約すればいいのだろうか。が、しかし。そうすると私はせっかくの対話編を、一人語りのものにわざわざ変換して、要約しているということにはならないだろうか。いや、ならないか。

 

 要約の過程の中で、いろんなものが削ぎ落とされる。それは重要度に応じて、である。その重要度とは何か。それは最終的な結論に対して、である。しかし結論がない対話編では、情報の重要度というものがないのではないだろうか。いや対話編全体に言えるのではなく、リュシス限定かもしれないが。

 本来、議論というものは、答えのための手段であって、答えにこそ価値がある。しかしプラトンの対話編はそうではなく、過程にこそ価値があるように思える。対話して、簡単には答えを出さないこと、様々な角度から吟味して、無知の知を自覚すること、ここに価値があるように思える。だとすれば、過程そのものを要約しないことには、レジュメにならないというか。レジュメにする意味がない。その内容だけを要約しても、そもそも答えがないのであって、何の価値もない。価値があるのはその過程、まさに哲学されている様なのであって。

 普通、デカルトであれ、フッサールであれ、答えが出ていて、その答えのためにこう考えました、だからこそ、まとめることができる。しかしプラトンのはそうではない。いやでもやはりこれは、リュシス限定かもしれない。「弁明」とかだとまた違うのかもしれない。

 

 何のためにレジュメを書くのか。それはその本の内容を深く理解するため、である。しかし哲学の本というのは、その内容を理解するということは、言われている結論を知ることではなくて、そのための思考活動をトレースするところにこそあるのではないだろうか。いや、これもまた曖昧な命題である。卒論の本は確かにレジュメにすることに意味がある気がするんだけどなー。

 

 そもそも、プラトンを読む意味、だよなー・・・。やはり内容として私が学ぶところはあまりない気がするんだよなー。その結論はどれも神話的すぎるし。強いていうならばやはり、その方法である、その哲学に対する姿勢である気がする。

 

p.s.

 ヘンテコなものを学んで影響を受けてしまうくらいなら、というところだろうか。やはり昔から今、ではなく、私は今まさに興味のあることを、進めていくべきではないか。とりあえず全部やろう、ではなく、私の最も興味のあるところから、紐づけていく。それはまさしく現象学である。

 プラトンの「国家」を読もうかとも思ったけど、これもやっぱり社会思想に興味を持った段階から出ないと、読めない。私の価値観の外側にあるものを受け入れるためには、せめて最低限の興味はないといけない。興味があるかないかと、価値を見出せないかどうかは、違うのではないか。私の外側にあるそれを受け入れられるかどうかは、関係性が根拠になるのだから。信頼してない人に対して素直になれないように、興味のない内容に対して受け入れるもクソもない。

 

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