【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「関係における自然体について」

 そろそろ寝ないとまずいんだけど明日寝不足覚悟で書く。

 さっき書いた、「男はつらいよ」の記事で、「自然な関係」とはなんぞや、という問いを出した。

 

kizito.hatenablog.com

 

 自然、ということに関して、大学の授業でこんな話を聞いたことがある。

 

 普通、「自然」というと、植物とか、本能とか、そういうもともとインプットされているものが思い浮かぶ。それに対して人間の作り出した人工のもの、つまり「文化」が対比される。自然ー文化、という構図。

 しかしこれに当てはまらないものがある。例えば、武道などにおける「自然体」である。これは、勝手にそう体が動くのではなく、長い期間の修練の果てに、体が思い通りに動くという意味での「自然体」である。つまりこれは自然ー文化の二項対立ではなくて、文化の果てにある自然体、である。

 更に言えばこの自然体は、心身二元論の超克でもある。心のままに体が動くからこそ自然体なのである。

 

 この二つから言えることがいくつかある。一つは、関係における自然体というのは、勝手にそうなるものではなくて、人の生きる道の修練の果てにあるものなのではないかということ。自然体をえる努力はまさに不自然というか、人間はいろんな文化をその身に宿していて、それを修練によって脱文化することによって成り立つ自然体というものがある。文化的努力(人為的努力)によって脱文化することによる自然体。これには努力が必要なのである。

 そしてもう一つ、その目標としての自然体とは、心身の一致があるということ。関係における自然体ということはつまり、心身が一致しているような関係ということ。過度の礼儀も、他人行儀も、そして馴れ馴れしさも、不自然である。武道における自然体が型であるように、関係、他者に対する振る舞いにも型があって、どんな相手に対しても対応できる型というものがあって、その型通りに振る舞うことが、自然だし、当たり前なのではないだろうか。

 相手がどんなであれ、振る舞えるという自然体。心のままに振る舞えるということ。間違ったら謝って、助けてもらったら礼を言って。友達は助けて、困ったら助けられて。そういう関係における当たり前がある。そしてそれは、心身の一致である。心と、文化の不一致ではなく、つまり過度の礼儀とか、過度の馴れ馴れしさ、とかではなく。

 

 この自然という感覚は、当たり前という感覚は、何を根拠にしているのだろうか。あまり言葉と論理を尽くしていうと、また自然からずれていく気がする。何がどうきても、振る舞いたいように振る舞えること。振る舞い、関わり方における、心身の一致。それはおそらく最もストレスも、嘘もない振る舞い方であり、自分との関係においても、相手との関係においても、ズレの少ない振る舞い方、だろう。そしてそれは、修練によって到達する領域である。

 

 これは一体、なんなのだろう。ちょっと時間をかけて、考える必要がある気がする。他者の自由を見ないというのも、明らかに不自然だったのであって。独りよがりの関係は不自然なのだろう。うーん私にはなかなか、難しいなぁ。

 

 あーでもやっぱ、最も仲のいい人との、あの自然体で居られる関係、あれをベースに持ってくるべきなのかもしれない。最初っから。自然体で居られる感じ、あの感じを、他人に対しても持ってくる感じ。自然体で居られることは無礼ということでも馴れ馴れしいということでもないだろう。でもこの意味での自然体は、じゃあ今友人の前で、私は自然体で入られているだろうか。

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