【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「関係における自然体について②:実践を通した精神修養がなかった」

  昨日書いた記事。

kizito.hatenablog.com

 

 今日大学の授業で、日本の芸術観についての講義だったんだけども、どうやらこの自然体という概念は東洋的なもの、いや日本的なものらしい。

 

 芸術とはもともとart、それはリベラルアーツとかいう言葉で言われるように、「技術」を意味した。しかし西洋においてその意味はそのあと、現代における美的芸術を意味するようになった。

 では日本ではどうだったか。明治になってこの西洋の芸術という概念が輸入されて、訳語として「芸術」という言葉がついた。ではもともとはどうだったのだろう。

 もともとは儒教の言葉で、芸術は「技芸」と「学術」ということを意味していた。また江戸時代になると、今日的な芸術(美的)という意味に近いものとして「芸能」という言葉が使われ、またartの意味では「術道」という言葉があった。「芸能」とは、学問技術の応用としての技能、ではない。では何か。

 それは「道」という概念に深く関わっている。結論を言えばそれはある専門領域において長い時間をかけて習得するものであり、その境地はすべての領域に通じ、かつ身体を通しての精神修養であるようである。

 

 なんだろう、うまくまとまらないけど。

 まず、理論というものがある。そして実践的技術がある。そしてこれらを二分する観点として、役立つか役立たないか、というものがある。日本の芸能は、役立たない領域における、理論と実践的技能である。しかしそれは精神修養につながっている。

 つまり役に立たないというが、それは目的に対して、いや問題解決に対して役に立たないのであって、人間としての人格の陶冶という面で考えるなら、役には立っているのである。目的が違うだけだと考えることができる。

 

 すると日本の芸能、芸道というのは、問題解決型の技能でも理論でもなく、人格陶冶のための技能、理論だということになるか。これは大陸が理論や知識を優先したり、西洋が職人的技能をアートとしていた点とも違うし、絵画のような美的芸術とも違う。

 また何かゴールのようなものがあるのでもなく、プロセスそのものが道である、という点もユニークだろう。

 

 さて、である。さてさて、である。

 このような芸術を、昨日書いた記事である「関係における自然体」と照らし合わせて考えるとどうなるだろうか。

 まず一つ、良き関係の中で、自分の人格の陶冶を目指すことがこの意義であって、関係性を何かこう合理的、功利的に考えたものでは、ない。問題解決のための手段としての関係ではない。それはコミュニケーション論とか、いい印象を与えるとか、そういうスキルになるだろう。

 次に、この関係における自然体の希求は、終わりがない。プロセスこそがそのまま修行であるということになる。

 

 理論も、実践も、両方必要なのは、言うまでもない。そしてその目指す方向が、功利的な方向ではないということも。そしてこれが、人の道、というものではないだろうか。

 なんで日本はこの、人格の陶冶、という観点で芸能を発達させたんだろう。精神修養ということが求められる背景ってなんだったのだろうか。西洋は、工芸的技術であれ、美的芸術であれ、「人格」というところには向かなかったのであって。いやでも、それは倫理の仕事だったのか。日本の芸術が倫理も宗教もごちゃまぜになっているだけの話か。

 

 「自然体」ということと、「道」ということは、どう繋がるだろうか。自然体とは心身の一致である。それはおそらく、思うように体が動くという身体的側面と、心を修養することで磨いて身体に一致させるという精神的側面とがあるように思える。精神と身体の修練の果てにある心身一如、これが自然体だろう。そしてそのプロセスそのものが道なのではないだろうか。

 しかしここで問題になるのは関係における自然体、である。人といること、共にあることにおける自然体である。それは人付き合いとか、社交術とかではない(それは合理的技能だろう)。これはいかにして可能か。

 対象となるのは、相手の心である。私の心と相手の心の関係を、できるだけより良いものにするためには、というところ、だろうか。より良い、と言われるとまたなんか違う気がする。

 

 いろんな修養があるのだ。身体的修養、知的修養、そして精神的修養。

 私は特に知的修養ばかり行ってきた、ここ最近は。しかし身体を、つまり実践を通しての精神の修養は、おろそかにしてきたのではないだろうか。これが反省点ではないだろうか。

 実践を理論的に反省することには意味はあるだろう。しかし、社会思想とか、現象学が、私の人間としての精神を修養してくれる訳ではない。

 

 関係がどうとか、ではなく、実践を通した精神修養、これが問題ではないか。心身一如とは、恐怖や怠惰も克服している状態だろう。それらの感情が、体を動かなくさせるのだから。心と体に関する自我の支配。これが自然体だろうか。

 

 もしくは、友人のように接すると言っても、やはり通り過ぎる人は皆他人である。そう思ってしまっている。ということは現象学的に考えてその条件があるはずである。相手のことを知るから友人になれるのだ。ならば、人間皆、心のうちにはこう思っているという人間観かあれば、相手が誰であれ、友になることができるのではないだろうか。もちろんその上で、私もまた自然に振舞わなければならない。

 

 んー難しい。でもとりあえず、私に足りなかったものは、身体的実践を通した精神的修練、これだということはわかった。本を読んで知識を身につけても、それだけではダメである。多分、頭を使った知的意味での哲学と、精神修練の果てにある哲学とはまた、違うんだろうな。私には後者がない。実践がないからである。

 

 実践が欲しい。私がなりたいのはよき人であり、学者ではない。しかしその実践もまた大きな前提の上に成り立つものだろう。大きな前提としての理論、哲学、特に関係性、他者に関しての哲学を、そして現象学を、今は、する必要がある。どちらか、ではダメなのだ。心と、体と、頭と。教養は実践を豊かにする。

 

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