【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「自由に生きる、時に制限する、では私にとっての自由とは」

 人間としての、人格としての修練、心と身体、そして頭という時の、実践的な心と身体の修練、この視点がなかったなという反省。

 必要なのは、本から得る知識ではなく、経験である。今の私には、経験が足りない。そういう反省があった。

 

 ではどんな経験をすればいいのだろうか。どんな人間が、よき人間と言えるのだろうか。いや、こういうことは、果たして考えてこなかったこと、だろうか。考えてはいた気もする。

 ソクラテスはその価値を、もっぱら知ることとしていた。だからこそ、無知の知という原理が生まれた。しかし、それだけではないはずである。特に知るということは日本的思想の中ではそこまで重要視されることではない。知っているだけでは、なんだというのだろうか、という話である。だとすれば人間としての価値、よき人格とは常に、何を語れるかではなく、何を為せるか、つまり背中で語れるところに存在する、ということになる。

 それはこの世界との関係、そして他者との関係の中で問われること、ということだということになる。頭の中だけで終わっていいことではない。

 

 いや、やはりこういうことは、今までも考えてきたことである。そして煮詰まった段階で、大きな挑戦をする、これが私の今までのライフサイクルだったような気がする。ただだいたい、挑戦には挫折してきたわけだけども。今もまたそろそろ、そういう朝鮮への、経験への意欲が、湧いてきているところ、ということだろうか。

 だとすれば私の普段の読書、学問というのは、どういうところに位置付けられるのだろうか。これはこの前友人と話していた時も、出たテーマである。人文学は人生においてなんの役に立つのか、という命題。現象学とか、そういう哲学は、なんの役に立つのか。知るということは、なんの役に立つのか。

 

 一つ言えることは、経験が暗黙知であるだけならば、それを伝えることは難しいということである。つまり教育的観点に立った時、私だけできていたとしても、それを伝えていくことはできない、ということである。だからこそ、自らを知る、自らを語ることができるということは有用であると考える。

 また学問とはそこで提出された思考形式が、そのまま応用力として実践の中で生きていくことにもなるかもしれない。知らないということは、意味付けできないということである。それは私の狭い価値観を超えることにならない。経験から未経験への冒険には推論と知識が役に立つ。人間とは何か、人生とは何か、社会とは何か、世界とは何か。そういうテーマに対して自分なりの世界観を持っていることは、ノアの箱船足りうる。

 

 知識があるというということは、一つの物事に対して多角的なものの見方ができるということ。これは十分、大切なことである。思考は行動に変わるのだから、やはり思考の柔軟性、頭の中の世界の広さは大切だと言える。しかし、それは理論であり、やはりどこまで行っても思考なのであり、実践なのではない。考えたり、意味付けできることは、PDCAにおけるPとCであり、DとAではない。

 実践から経験を得る、だけではダメである。それを豊かな知に変えていくことができない。一つの経験からどれだけ豊かな学びを得るかは、すでに持っている教養に相関する。多くの学びとは多くの意味づけであり、それはすでに多くの意味=言葉や考え方を持っていることにつながるからである。が、逆もよくない。それだけの思考を持っていながら経験が足りなければ、私は何に意味付けすればいいのだろうか。

 理論と実践、学問と現場、経験と反省、こういう二元論がある。これって本当に、こういうことなんだろうか。

 

 いや、根っこから考えよう。と行ってもその根っこを自分で見つけるのはきついから、竹田欲望論を前提に。

 

 一切は超越論的主観性と、そこから構成される超越としての現象とにある。生きる意味、人生とは、他者とは、何に価値があるか、何を信じるか、ぜーんぶ現象。そしてそれを作るのは超越論的主観性、言い換えれば欲望や関心、志向性。

 問題はここから、どう進んでいくか、である。じゃ自分の生きたいように、欲望のままに生きればいいかといえばそんなことはない。この欲望というものが、一言では言い尽くせないほどこんがらがっているわけで。

 この欲望を叶えたい、欲望のかなう生き方がしたい、これを自由とするならば、人は誰もが自由に生きたいと思うものだ、と行ったのが苫野一徳さん。もちろん、人によって自由の形は異なる。それは欲望の形が異なることに等しい。

 自然体という考え方もここに加えるなら、自然体の人っていうのは、最も自由な人間なんだろうな。自由という名の自然体。

 自由の形が人によって異なるならば、自然体の形も人によって異なるだろう。当たり前である。みんな同じ自然体なんてありえない。ならば、自由であることが自然体ならば、私の自由とはなんだろうか。それは私の欲望を知るところから、である。

 

 欲望とは何か、私は何を欲しているか、と問う時の「欲望」は、超越論的主観性としての欲望では、ない。そこには、「私は何を欲しているか」という命題の形の現象と、それを問うている私の欲望つまり「私は何を欲しているか知りたい」という欲望があるだけである。自分の欲望を問う時、もはやそれによって欲望は対象化されてしまっている。しかし対象化された欲望は、私を知ることになるだろうか。いや、なる。対象化され明示化された欲望がそのまま超越論的主観性に成り代わることは十分ある。私は何がしたい?勉強したい!そうわかることで勉強したいという欲望=志向性から世界が見えるようになる、世界に意味づけるようになるだろう。

 

 んー。人間としての価値はどこにあるか。それは関係に対する貢献、ではないだろうか。いやしかし、そういうことだろうか。うーん。道徳とか?前提がわかんないんだよなぁ。ここから始めようっていう地平がわからん。

 

 だから何を考えても、ピンとこないというか、それってどうなん?てことになるんだよなぁ。論理的に考えるにしても、まずどこから?っていう部分をしっかり定めないといけない。土台なき思考は砂上の楼閣である。まずは土台である。

 

 理論も、実践も、その土台の上に立つからこそ、である。ではその土台ってなんだ?人間の生きる道における土台ってなんだ?

 

 少なくともこれは、精神の修練とか、人間としての価値とか、なんだから、哲学的な存在の妥当の土台、とかではない。価値は欲望に相関する。ならば間主観的欲望に見合うことが私の人間としての価値?しかしそうだとスーパーマンみたいになってしまう。そうではないのだ。私にだってできないことがある。私だけ完璧になっても仕方がない。みんな、できることとできないことがある。そういう多様性を多様なまま生きられるような関係を、場所を、考えなければならないのであって。私一人が飛び抜けてもしょうがないし、そういう考え方は他のみんなに対しての接し方にもろに影響が出てくるだろう。

 

 今日、ホッブスの勉強をしたんだけど、倫理学における有名なスローガンが二つある、という話を聞いた。

1、自分の欲することを他人にもすること(福音書の法)

2、自分の欲せざることを他人にもしないこと(万人の法)

 もちろん、何がしてほしいことで何がして欲しくないことかは人によって違うから、そこは対話による合意の形成が必要なのはいうまでもない。その上でこの二つは、やはり倫理における基礎と言えるのかもしれない。

 これが、人の生きる道の、基本方針、だろうか。すると、欲望というものが一切の価値を決める、けれども、倫理的価値というのは、私独断の欲望が決めるのではなく、間主観的な欲望というか、私の欲望とあなたの欲望が、それを決めるということになるのだろうか。

 それと、私一人の精神の修養とは、どう関わってくるのだろうか。でもやっぱ魅力的な人っていうのは、私にとってそう映る人である。それは、私に安心感を与えてくれる人だったり、何か大きなことを成し遂げる人だったり、問題から逃げない人だったり。

 でもこの魅力っていうのも、倫理的に魅力だということと、美的に魅力だということは別れるだろう。優しいとかは、関係性において相手に快を与える、つまり関係性における善である。しかし問題から逃げないとか、勇気を出すということは、自分の弱さとの戦いなのであって、それはかっこよさである。戦うことが人間の美学である。

 善とは、倫理の問題であり、倫理とは、倫すなわち人と人との間の問題である。美とは人によりけりだが、自然体もかっこよさだし、戦う姿勢もまたかっこいい。では真とは?それは叡智、つまり分ける能力、だろうか。

 

 だいぶ話が錯綜している。でも欲望からスタートすると言っても結局こんな話になるわけである。

 また人間の価値を考え、定義づけるほどに、そうでない人はじゃあ価値なしなんか、という話になっていく。それも違う。なぜならここで考えた価値は私の、<私の>欲望に相関しているからである。そう思わない人にはそう思わない人の価値がある。だからやっぱり、価値は欲望が決める、以上のことは言えない。欲望は人それぞれなんだから。その上で、お互いの自由を相互承認する範囲で、各々が自由に生きればいいということになる。

 

 すると・・・

1、その人の生き方はその人の欲望に相関してその人の自由に決められる

2、その上で、互いの合意のもと、時に自由を相互に承認し、時に相互に制限することが必要

 と、いうことになるか。しかしこれは最低ラインでの話、である。

 

 いや、そうなのだ。最低ラインなのだ。つまり、これだけは万人が守るべき間主観的倫理なのである。ここから先は、私の主観的価値を考えていく必要があるのだ。誰にも共有されることが仮にないとしても。ここから先は、誰かと違うことが原理的に確実にあり得る領域なのである。だからこそこれは、<私の>価値であると言わなければならない。

 しかし私が私の価値を、理想を考えていくとき、何を前提にしていけばいいのだろうか。それは客観的ななにがしか、ではない。私の至極、個人的なことなのではないだろうか。それはまさに、この情動、この経験、この自己物語であり、またこの死でもある。

 客観ではないけども、私のとって圧倒的なリアリティを持ってやってくる、私のこの固有性。つまり最低ラインの倫理は間主観的確信に支えられる必要があるが、私の理想は私の反復的確信によって支えられる必要があるということ。

 経験のベース無しにこれは語ることはできない。ただの論理になると、その根拠がわからなくなる。何を根拠に置くか。自由に生きていい、人の自由を侵害しないのであれば。しかしそれはつまり、他者に無関心に生きていい、ということでもある。しかしそうだ。上のルールは義務であり、従う必要があること。私は他者に無関心な人に対して忌避感情を抱くだろう。しかしそれでもなお、彼がそれを義務とする必要はない。自由になる権利は誰にでもあるのである。あと残っているのは、やらねばならないことではなく、やりたいことである。

 そして逆もどり、やりたいこと、なりたい自分って何ですか?になる。欲望が複数になると違いを守るための義務が生じる。しかしそうでなければ、基本的に生きることは、生きたいように生きることである。では生きたいように生きるとは?欲望を根拠に人生を考える。しかしどの欲望を?欲望を根拠にって?

 

 眠くなってしまった。つづきはまたこんど。

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