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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「価値妥当に関してちょっとまとめてみる」

 卒論の製作過程の中で考えたことを少し。

 

 私と他者、何が違うのか。まず私の世界認識から考える。

 野矢は『他者と心』の中で、アスペクト一元論を展開する。これは世界現象としての意味世界がある、ということである。その中に、様々な特殊化された意味がある。このペンも、このパソコンも、私の信念も、全て「意味現象」である。

 私と他者の違いが明確化される時とは、この「意味現象」の差異が意識化、主題化された時である。他者に出会うことで私の意味世界は複相的になる、つまり私の意味づけの仕方以外の意味づけの仕方があることを知る。逆に異なる意味づけを知らない時は、それは単相状態として主題化されない。

 しかし単相状態にも二つのパターンが考えられるように思える。一つは異なる意味に出会わないことによってそもそも疑われすらしなかったという意味での単相であり、もう一つは他者の意味づけと同じであるがゆえに問われなかった単相状態である。この違いをどう説明すればいいだろうか。

 しかし、異なる意味づけに出会わないというのは、フィクションでしか語れない領域のようにも思える。他者に出会わなければ私の心も他者の心もその意味を持ち得ないのであれば、それは私の心なき世界現象である。私なき世界を、私が問うことはできない。つまり私とは、他者と出会うことで生まれた存在なのであり、それ以前は原理的に問うことができない。推論なら可能かもしれないが。

 するとこう考えることができる。まず、他者なき世界、鵜呑みにされる意味世界としての世界現象があった。そこで、私とは異なる意味づけを行う他者に出会う。これによって、その意味現象の中で、何が他者と同じで、何が異なるか、ということが意識化される。これをそれぞれ、客観と主観と呼べるのではないだろうか。一枚岩の意味世界から、主観と客観が別れる。

 すると客観=間主観、という構図はやや間違っていることになる。客観とは「<同>意味現象」であり、主観とは「<異>意味現象」である。つまり主観には、「これはわ私だけが思うことで他の人はそう思わないかもしれない」ということが含意されており、また客観には「私以外のみんなにもこういう風に見えているだろう」ということが含意されている。

 こう考えるとやはり、他者=異なる意味秩序に出会わなければ、主観も客観も存在し得ないことになるだろう。

 

一枚岩の意味現象

→<異>意味現象=主観

 <同>意味現象=客観

 

 さらに考える。

 竹田青嗣さんの「意味とエロス」では、この意味現象の妥当の可能性を考える。どういう条件のものでその意味(この意味の中には、存在や価値が含まれる)は妥当=確かにそうだという確信を生むのか、ということを考える。

 彼はその妥当構成の条件に、「間主観性」と、「反復可能性」をあげる。前者は、私以外もそう見えている、そう思っているという「私の」確信のことであり、これが強いほどそれは確かにそうだと思える、ということになる。これは野矢の議論でも同様である。反復可能性は、例えば知覚の場合など、何度見てもそのように見える、ということを示す。

 しかし、「間主観性」はなくても「反復可能性」はある領域というものもある。主観である。私がそう思うことは他の人もそう思うわけではない、ということが主観の妥当成立の条件である。そうすると主観かつ強い妥当を感じる条件というのはこの反復可能性にのみ依存することになる。

 キルケゴールが「そのために生き、死ぬことができるイデー」と言ったものはおそらくこの領域に関することである。それは、他者からの承認を必要としない。それは、まさにみんながどう思うかではなく、私が、どう思うか、という領域に関することである。

 この主観にしか根拠を求めることができない妥当の可能性に関して、竹田がいうのは、「彼岸性」ということである。つまり、私の外側からやってくるものほど、その妥当確信が強い。知覚は、私の好む好まぬに関わらず確かに現前する。対して想像は、私の意思で止めることができる。欲望や感情もまた、私の意思の外側からやってくる。逆に思考というものは、私の意思で止めることもできる。

 こう考えると興味深いことに、妥当確信に関して、彼岸性が高いほど間主観的確信は必要ではなく、彼岸性が低いほど間主観性が必要であるということがわかる。

 

 ここまでの話を、私の人生に当てはめて考えてみる。

 私が欲していたものはまさに、信じるに足ることができるもの、であった。だからこそ、考えに考えた。哲学もした。そして現象学こそは、この信じるに足る=妥当を問う学問であった。つまり私は「妥当」が欲しいのである。

 そしてその「妥当」について考えると、このように間主観的な妥当と、主観的な妥当と二つがあるということになる。しかし私はここ最近、前者にしか考えを巡らせていなかったのではないかと思うのである。

 <同>意味現象としての妥当は例えば、論理とかで説明ができることであり、真善美でいうならば、真や善に属することではないかと思われる。その根拠はみんながそう思うかどうかである。だからこそ、他者の納得が必要なのである。

 しかしこの<同>意味現象だけでは確定できない領域というものが存在するように思えるのである。それはまさに論理などの思考の領域ではなく、感情や欲望の領域である。例えば私が大失恋をして、もう恋なんてしない!なんて思っていたりする。恋なんてクソだ、と思うとする。この妥当は、まさにこの感情こそが根拠なのであって、他の人もみんなそう思うかどうかと言われるとそんなことはないのだけれども、しかし私にとってはまさにこの感情を根拠に真実なのである。

 そしてこの妥当は、「私はいかに生きるか」という問いについても、同じことが言える気がするのである。周りと同じように生きることで自分の人生に納得がいくのだろうか。では私はどのような人生に納得するのだろうか。それは何が真ー偽なのか、何が善ー悪なのか、だけでは語ることのできない、「美ー醜」の領域なのではないかと思うのである。つまり論理だけでは自分の人生を語ることができない。

 もちろん私はいかに生きるか、は、いかに生きるべきか、という善悪の判断は含むので、全く独りよがりにすることはできない。他者の自由を侵害するような自由は許されない。しかし同時に、他者を基準に語ることができないものでもある。人に迷惑をかけなければそれでいいのか、そうではないだろう。うまく言えないが、いかに生きるか、という問いは、「いかに生きたいのか」ということであり、まさに私の欲望や感情が問われる部分ではないかと思うのである。根拠を他者ではなく、自分にしか持ってくることができないように思えるのである。

 <同>意味現象の確信と、<異>意味現象の確信、これと真善美は、パラレルな関係にあるように思える。すなわち価値判断に関して、真と一部の善は<同>意味であること=他者がその妥当の根拠になるのであり、一部の善と美は<異>意味であること=私がその妥当の根拠になる。

 

 私は、私のこの心、感情、欲望による彼岸性による根拠を持った価値判断というところに関して、考えてこなかった。故に善に関して常に間主観的に考え、何かズレを感じ、また美に関しては一切考えてなかった。美に関して考えるとは、例えば、どんな生き方がかっこいいか、というものだったりする。こういう、自分の心しか根拠にならない領域について、もっと考えて生きたいなーと思う。

 いや、欲望や感情はまさに実践の場、世界とのありありとした関係の場においてこそ、彼岸からやってくるものである。この領域を育むにはやはり、経験が、実践が不可欠である。椅子に座って考えているだけではこのタイプの確信は作り出せない。

 

 さらに言えば、自分の心しか根拠にならないことと、それが普遍性を持たないこととは、違う。深い主観的経験はそのまま普遍性を持つと思うのである。これは論理による普遍性への到達とは違う。何が違うのかはまだピンとはこないけど、こういうことについても考えていければなと思う。

 そして気をつけたいことは、それは他者との相互了解的確信を根拠にすべきか、それともこの私の心のみを根拠とすべきか、という点である。どれだけみんなからそうだと言われても自分では納得できない領域というものがある。それはカテゴリーの読み違いから生まれるものではないだろうか。

 あー自らの心のみを根拠とすること、過去の経験で感じたこと、今の自分で感じること、これのみを根拠とする領域、ここについて言えることが「自信」なんだろうなー。自身のなさっていうのも、結局それを論理で補おうとしていたのであって、カテゴリーミステイクだったのかもしれない。

 

 妥当に関しての二つの方向、他者との同一性を根拠にする方向と、自らの感情的強度を根拠にすること。この二つを忘れないように。

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