【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「野矢茂樹『心と他者』 第3章の要約と感想」

 

心と他者 (中公文庫)

心と他者 (中公文庫)

 

 

第三章 眺望論

 

 「心と他者を巡る考察は、内界への探求ではなく、世界の眺めの多様性、そして眺めそのものの異なりとしての他者へと向かわねばならない」146、これが第二章までで確認したこと。

・眺望(パースペクティブ

①知覚ー視点状況からの眺め

②感覚ー身体状態からの眺め

・相貌(アスペクト)=複相

異なる意味づけ=文法のもとに対象を見る

そしてこのアスペクトこそ、「心的」と呼ばれるものではないか。

 

1、視点状況とパースペクティブ

 この世界の眺めは遠近法的構造=パースペクティブを持っている。そしてその眺めの原点ゼロは<私>である。つまり世界の眺めは全て<私の>眺めであり、たとえ他者と同じ場所から同じものを見ても、それは<他者の>眺めではない。故に他者の眺めとは何か、ということになる=意識の繭、これを退けねばならない。

 

 世界の眺めはけっして単視的ではない。

 <物が見える>という「そのことの了解の内に、現在知覚されているパースペクティブ以外の他のパースぺクティブの了解が含まれている」152

 ex.現在の知覚に加え、記憶や予期、反事実的な思い(虚想)

→しかしこれらは単なる知覚の話。独我論的世界でも同様。

 

 私の<ここ>の視点からは、彼の<あそこ>の視点は見えない。ならば同じ場所、同じ時間に位置するとどうなるか。しかしそれでも、「視点の時間空間的位置をたとえ等しくしたとしても、原理的に私は他人のパースペクティブを体験できない」154

→「視点の時間空間的位置が固定されるならば、パースペクティブも固定される」154

 「パースペクティブとは、基本的に、まだ誰のものでもないと言うべきだろう。あるいはむしろ、すべてのひとのものである、と言うべきかもしれない。」「誰でもその位置に立てばそれが見える、これがパースペクティブなのである。」

 「パースペクティブの可能性は、私が与えるものではなく、純粋に<物>の側からの要請にほかならない」155

 「『彼にもこれが見えている』とは、『彼の位置からもこれが見える』と言うことにほかならない」157

 「彼の報告はいわば匿名の報告であり、私とか彼といった人称的な記名は一切含まれていない。…各人が『誰でも』という身分、お好みなら<ひと>と呼んでもよいような一般的主体の身分で報告をなしているのである。」157-158

 

※ネタバレになるが、なぜ「私」が問題にされないのか。それは意味の差異が問題にされないからにほかならない。私とは他者とは異なる相貌である。眺望は、等しい相貌である。相貌として生まれた私が眺望について語るから、この<私>がなぜ<他者>の眺望がわかるのか、なんて言う話になる。物の側からの要請=客観ということも、他者との差異のなさにほかならない。

しかしうまく納得がいかない。やはり私からスタートしてしまうし、眺望は<私>なしの眺めというが、私は私なしでの眺めを想定できるだろうか。

<心>と、<自我>を、この本は分けて考えているのだろうか。<私>とは何かもまた考える必要がある気がする。そうしないと納得できない。<私の>がつく全ては他者との共有不可能性に晒される。では<私>とは?<心>だろうか。

主客一致問題も、自我と他我の一致問題も、見方の差異の問題を全現象に対して過度に一般化してしまった倒錯した問題のようにも思える。

 

 どういう時に知覚報告をするか。すなわち、「机がある」と言わずに「机が見える」というのはなぜか。

・知覚報告における二つの要素

①知覚内容…「机が見える」における、「机」

②視点状況…「ある知覚内容の知覚を成立させるのに必要とされる周囲の状況」161

 ex.見る位置、主体と客体の間に何があるか、照明の具合など

→「知覚の叙述形式がとられるのはなんらかの形でその視点状況が問題になっているとき」162

 「知覚報告の内容は、心的記述ではなく、世界記述なのである。あくまでも世界のものごとについて、その視点状況の在り方を籠めて、報告する。それが、知覚報告のポイントにほかならない」162

 よって知覚報告の眼目は次の二つ。163

⑴視点状況の在り方を籠めつつ世界記述をする場合…展望台から「海が見える」

⑵積極的に視点状況の在り方を示唆しようとする場合…「見えないんですが」

 また、「視点状況は完全に第三者によって観察可能だという点は決定的に重要である」164

→以上、「知覚と視点状況の関係というこの場面には、内と外という比喩の入りこむいかなる余地もありはしない」164

 

※「机が見える」のは「私」から、である。しかしこの「私」は視点状況以上のことを意味しない。故に「私」と同じ位置にくれば「あなた」にもこれが見える。「私」から始まって他我に到達できないのは、私=内界だと思っているからにほかならない。しかしこの議論のように、私とは視点状況であるとも言える。いやーでも考えるほどに、私は他者の眺めを経験できないと思ってしまう。私は他者にはなれないと思ってしまう。「私」という概念が混乱している。

これを考えるとき、何が起きている?私は想像している、この私の視点を彼の位置に類推している。しかし類推してもそれは「私」の視点である。彼の視点ではない。彼の視点を経験することは不可能、しかしそれは全的な世界現象としてはそうである。つまり世界現象を構成する知覚、感覚、意味を全ていっぺんに経験するのは不可能。しかし彼の世界のうち、知覚と感覚は、同じ条件に立てば経験できるのではないか。

逆だ。類推するもとのこの私の視点というものを、分ける必要がある。これが全て「私」の視点だと思っているから、私を類推しても無駄なのである。でもこの視点状況を類推するなら、可能ではないか?それは視点の類推=虚想である。それは一人の知覚でもやっていること。コップの後ろを虚想しているとき、でもそこから見る視点は私の視点ではない、と思うか?私の、彼の視点、ではなく、ここから、そこからの視点なのである。だからこの世界現象の中で、場所依存、視点依存の部分のみに関して言えば、確かに問題はない。

ここからあそこへ、なら問題ないのに、それでも根強く、私は彼の視点に立てないと思うのはなぜ?

「私が彼の場所に行っても、そこから見えるのは「私」の世界なわけじゃないすか。だから想像で彼の目線に立ったとしても、それは彼の位置から見た私の世界なのであって、彼の世界ではないと思います。」

私の世界現象は、まさにこの「私」ということだけを根拠にしているのではない。ここであること、この身体であることを前提にしている。こことか、身体は、「私」とは違う。では「私」とは?意味秩序だろうか。

納得がいかない・・・。

 

 

2、痛みと身体

 知覚と違い、「感覚は世界に対象をもたない」165。ならば感覚にこそ、心との出会いの契機があるのか。否、出会うのはむしろ「身体」である。

 「感覚を身体と結びつける形で考察することによって、内界モデルと訣別しつつ、なお感覚における自他の非対称性、すなわち体験者当人の特権性を適切に位置づけること」167、これが本節の課題。

 ここでいう「体験者当人の特権性」は心的特徴と同様のものである、つまり当人が痛いといえば痛い、というもの。しかしそれは他者には到達不可能という意味での私秘性とは違う。

 

 知覚と感覚の定義:「知覚は(世界のものごとについての)志向的内容をもつが、感覚は志向的内容をもたない」169

  これは文法上の分類である。つまり志向的内容を持てば知覚なので、ペンで突かれた時の感覚は知覚である。

 また現象による分類でもない。ペンで突かれた感じそのものは感覚であり、それによってペンという志向的内容を持つ点では知覚である。「現象としては一枚岩であるが、われわれはそれをさまざまな側面から記述する」171

 

 「感覚もまた世界の眺めとしてある」172、ではどこにいき、どういう状況に立てば痛みとしての眺めを得ることができるか。

 知覚に対しての視点状況のように、ある状況のもとでは誰もがその痛みの眺めを得られる、そんな状況があるか。答えは、ある。

 痛みにおける他我のアポリア…この痛みは私の痛み、故に他人の痛みは登場しない。他人に想像する痛みも、私の痛みを類推しているだけ、彼の痛みではない。

→「知覚と視点状況の議論を、感覚と身体状態に関してなぞればよい」174

 他人は私が感じていない痛みの報告をする。しかしそれは「私とその人の身体状態が違うからにほかならない」174、故に私秘性の報告ではない。「しかるべき身体状態ではまさに『誰でも』痛いのである」175

 

※この眺めもまた、ある身体状態からの眺めであって、私の眺めではない。全く同じ身体状態になったとしても、私の痛みと彼の痛みは同じだろうか。「私」と考える時点でこの問いはアポリアに陥る。しかし私なき痛みとは存在しないのではないのか。第二章の「他我の不可知性」「他我の無意味性」の議論はどうなる。いや、つまり、「私」なき痛みはある。私なき知覚、私なき感覚はある、のだ。よって「私」を考えてはならないのだ。もしくはこの時の「私」とは、その内実は、視点状況と身体状態を指している。

しかしこの知覚、この感覚は、私のものではないのか。では誰のもの?私とは?

 

 以上は、知覚と感覚の共通点。しかし、「当人が『痛い』と言えば痛いのだ、という体験者当人の特権性が感覚報告の場合には見られる」177

知覚と感覚の定義:「知覚は(世界のものごとについての)志向的内容をもつが、感覚は志向的内容をもたない」169が故にである。

 「知覚内容は真偽が言え、それゆえ、誤りの可能性とそれに対する訂正や確認の可能性をもつ」180

 「他方、感覚は世界のものごとについての内容をもたず、それゆえ、誤りの可能性と訂正や確認の可能性は定義上排除されているのである」180

 では、知覚内容は外界にあり、感覚は内界にある、とは言えないのか?

 

 「『見ることと見られるもの』という図式で感覚を捉えようとすることから訣別しなければならない」181

①見ることは内容を持つが、痛むことは内容をもたない。故にカテゴリーが違う。

②「『痛み』は『見られるもの』に類するものでもない」182

 見られるものは見てなくても存在しうるが、痛みは痛まれなくなったら存在しない

 見られるものは様々なアングルから見れるが、痛みは様々なアングルから痛まれない

 「知覚も感覚もひっくるめて、『見ることと見られるもの』という図式で一律に捉えてしまうとき、『誰にでも見られるもの』と『当人だけに特権的に見られるもの』とが区分され、世界は外界と内界とに分かたれてしまう。」183

 しかし痛みは、感覚はそもそも知覚とカテゴリーが違う。故に、「痛みを感じることは、けっして自らの意識の内に生じた痛みを私が覗きこんで観察することではない」183-184

 

 知覚におけるアングルが痛みにはない

→「痛みの場合には全貌がそこに現われる」184

=「感覚の単眼性」:アングルによる現れ方の差異が存在せず、つねにその全貌が顕わになっているという単一アングル的性格184-185(知覚の眺望の場合はこれと比較して、複眼的)

 感覚における報告者の特権性

→私秘的対象が当人のみに接近可能な内界にあるから、ではない

→「眺望が複眼的であるならば、視点状況を変えてよく見てみることもできるだろうか、単眼的な眺望はその眺めですべてなのであり、「もっとよく……」ということは考えられない。それゆえにこそ、感覚報告は、さらなる訂正や確認のゲームをもたず、その報告で打ち止めとされるのである」185-186

 

※様々な視点状況からの知覚眺望を複眼的というならば、様々な身体状況からの感覚を複眼的とは言えないのか?感覚を単眼的というのはまさに感覚を視点状況から捉えようとすることによるカテゴリーミステイクでは?いや、結構いろんな要素がありそう。難しい。痛みは内容をもたない、かつ知覚的内容でもない。知覚とは全く別の、知覚という形式で捉えることはできない、独特の世界眺望の形式である。感覚には感覚の文法が必要だということになる。そしてその感覚の文法として、単眼的である。

でもこれと、特権性の議論が、いまいちピンとこない。痛いと言えば痛い。なんと言おうが痛い。同じ身体状態になれば同じ痛みになる。一つの身体状態における感覚を、知覚的に捉えようとするから、特権的と言われるのでは?知覚の訂正の枠組みで感覚を訂正することはできない?んー。

 

 この単眼的な世界眺望こそ、心では?そして複眼的眺望=外界で、単眼的眺望=内界という、二元論では?

心身二元論において痛みは、この私の痛み、内界の痛みだった。

 しかし今、「『痛み』の意味は『然るべき身体状態からの世界の眺め』として了解される」186つまり知覚と同様に、「ある眺望点からのこの世界の眺め」187である。

 「だが、感覚は知覚と異なり、単眼的な世界の眺めを与える。この単眼性という特徴は、しかし、『感覚』という独特な世界があるからなのではない」187

 それは「『身体』という概念の独自性」なのである。では、感覚の単眼性と身体との関係は?

 

 「知覚も感覚もある眺望点からの世界の眺めである」188

 「知覚の場合の視点状況は第三者的に見てとることができる」188

 「彼の身体状態は、第三者の観察によって確認できるものなのだろうか」188

→一方で、できる。確認して、同じ身体状態からの痛みを想像する

 しかし他方で、できない。なぜか原因が把握できない痛み、それでも当人が痛いと言えば痛い

 「ある場合には、痛みを生じさせる身体状態であることは、ただ本人のみが知っている」189

 「何か身体に痛みを生じさせる原因が存在することまでは、本人が、しかも観察によらずして、知りうるのである」189

 「第三者的な観察の範囲に収まりきれない、当人のみに許された身体把握、『観察によらない身体把握』」189

=感覚による単眼的な把握、観察によらない把握、「見透された身体」190

 

 「世界の眺めは、対象の知覚であれ、感覚であれ、見透かしの構造をもっている」193

 日常生活の多くの場合、この見透し線(=視点状況、身体状態)は透明

 「見透し線が不透明になったとき、われわれは知覚や感覚の叙述形式をとるだろう」193

 「感覚とは『不透明化した身体の見透し線』にほかならない」193

→⑴「感覚は見透し線の向こうにある対象ではない」…対象をもたず、対象にもされない

 ⑵「感覚とはむしろその見透し線そのもの」…単眼的、知覚の見透かし方とは違う

 ⑶「感覚とは、身体へと引きこまれた見透し線」…感覚により身体が不透明化する

 

 「見透しによる身体把握が、命題の論理形式として『存在命題』になっていることは決定的に重要である」195

 膝の痛みの原因は何か。これは見透しではなく、医者の「観察」などで知りうる。しかし痛みの感覚によって、見透し的に知りうるのは、そうした以上の「存在」まで。

 存在命題の文法:「第三者的に確証可能だが反証不可能」196

 「ここに私は、感覚における自他の非対称性、体験者当人の特権性を、内界モデルとは無縁の形で見出す」196

 「体験者当人の特権性は、その身体状態の把握の仕方の内にこそ存するのである。すなわち、私が私の身体の異常の存在を、見透し的に把握するという事情の内に、体験者当人の特権性は見出される」196-197

 

※以上、知覚的世界眺望と、感覚的世界眺望について。二つとも「パースペクティブ」の名前で呼ばれているがその眺めの仕方は全く違う。

特権性に関しては、痛みの原因に対して第三者的に全て知ることができず、当人のみが見透かし的に知ることができるという点で、特権的ということだろうか。

言わんとしていることはわかるが・・・浸透するまでもう少し時間がかかりそう。

原因が存在命題になることは、知覚の場合も言えるのでは?なぜが景色が霞んでいる、しかしその原因がわからない。それは目の異常なのだろうが。「目の異常」という点まではわかるのか。その異常はどこにある?となるとわからない?いや、あるなしの問題ではなく、どのように与えられるかの、与えられ方の問題?

 

 

3、相貌論

 「一般に、ある視点状況に立つ他人の知覚報告が『その視点状況からは誰でもその眺望が得られる』という了解を突き崩すものではないかぎり、私もまた、同じ視点状況に立つことによって同じ眺めを得ることができる。同様に、ある身体状態におかれた他人の感覚報告が『その身体状態にあれば誰でもその感覚が得られる』という了解を突き崩すようなものではないかぎり、私もまた、同じ身体状態になることによって同じ感覚を得ることができる」198

 「そしてその意味で、他人の知覚報告や感覚報告は完全に私にとって理解可能なものとなるのである」198

 では、「視点状況や身体状態の差異に解消されないような、私と他者の違いとは何か」199

 

色盲の人とかはどう考える?視点状況の差異?確かに同じ病気になれば自他の非対称性はない。だとすればパースペクティブにおける他我問題とは、ある眺望点としての視点状況及び身体状態の共有可能性ではないだろうか。共有不可能な時に、理解不能な他者は現れないのだろうか。

同じ視点状況からの眺め、同じ身体状態からの眺め。この同じは、私や彼を含まない。私の眺めとするから、彼の眺めにはなり得ない。私=彼にはなり得ないからである。しかしでは、私の眺めと、ここからの眺めと、この身体からの眺めとは何が違う?

 

 反転図形。「あひる<が>見える」と「あひる<に>見える」。ここに他者と心の在りかを巡る問題の鍵が潜んでいる。

 前者を知覚報告とするなら、後者は「アスペクト報告」

 

 「時計台が見える」…「時計台がある」こと、つまり時計台の存在が含意されている

 「時計台に見える」…されていない。つまり志向的内容をもたない。

→「知覚報告ではなく、むしろ知覚の仕方の報告、すなわち、世界の見方・見え方についての報告にほかならない」202

 「ここにうさぎが見える」(捜し絵)…うさぎという対象が見出される

 「ここがうさぎに見える」(判じ絵)…うさぎという意味が見出される

 

 時計台に見えている時、時計台が見えているのでないなら、何が見えている?

→対象ではなく意味を見ている。それに対し何が見える?と対象を問うのはカテゴリーミステイク。「アスペクトとは、いささかも対象ではない」204

 

 アスペクト把握で把握されていることは何か

 「1,2,3,5」の数列

素数の列と見れば、次に来るのは7

②前の二項を加える列と見れば、次に来るのは8

→無数の規則の下に置かれうる。

 「『あひるとして見る』という言い方は、その図形を『あひる』が属す意味規則=文法のもとに扱うということを述べている」206

 「アスペクト把握とは、その対象の『文法』の把握なのである」207

 

 では知覚報告においては文法は把握されていないのか

→否、「文法と無縁な意味抜きの知覚などありはしない」、「対象と文法(意味)とは切り離しえない。対象は文法によって形を与えられ、文法は対象において示されている」208

 では何が違うか。

 「海が見える」…「ある文法のもとにある対象」の報告

 「海が見える」…「ある対象のもとにある文法」の報告

→「対象と文法との図と地の関係が反転している」208

 ではいかなる時、文法が主題化されるか

 「アスペクト報告は他のアスペクトの可能性が意識されているときのみ、為される」209

 「<……に見える>という言い方は、別様にも見えうることを含意している」209

 単相状態…「他のアスペクトの可能性が意識されていない状態」210

 複相状態…「他のアスペクトの可能性が意識されている反転図形のような場合」210

 「複相状態においてのみ、アスペクトは問題にされる」211

 

 複相状態は、日常生活においても頻繁に起こる。

 そのとき、「私には、目の前の他者がそれをどういう意味のもとにおいているかがまだ理解できないのである。確かにわれわれは同じこの世界に住んでいる。しかし、必ずしも同じ意味のもとに住んでいるわけではない。」=「意味の散乱」212

 「他者の不透明性を顕わにし、心という領域を出現させるには、その根底にこうした意味散乱の現象があるのではないだろうか。」212

 「他者とは、私には覗き込めぬ内界のことではなく、私には理解しきれない、私とは異なる意味秩序のことに他ならない。」212

 

 感情について

 「なぜ悲しいのか」これは身体的な原因を問う問いではない。

 「悲しみのわけは状況にあるというよりは、むしろ、その人の状況認知のうちにある」214

 「感情にとっては、そこで生じる質的状態よりも、そのできごとに本人が見てとる意味こそが本質的なのである」214

 「親の死というできごとそれ自体が問題なのではなく、親の死がその人にとってもっている意味、そのアスペクトこそが問題なのである」214

 理由と原因の区別

 原因…「アスペクト的な関心とは無縁のところでことがらそのものが問題となる場合」215

 理由…「そのことがらがその人にとってもつ意味、そのアスペクトが問題になる場合」215

 原因は観察によって知りうるが、理由は観察だけでは知りえない。ある出来事で彼は悲しんでいるという原因は、観察で知りえても、そのできごとに彼がどのような意味づけをしているのかという理由までは観察では知りえない。故に、「私はその人の観点を理解するために、たんに彼を観察するのではなく、対話に訴えねばならないのである」216

 

※感覚の特権性を理解するためにもわれわれはどこがどう痛いかを聞くし、私が見たことないものを見た他者に対して「どうだった?」と聞く。意味の違いに対して理由を問うこともそうだが、相手の身体状態や視点状況もまた問いになりうる。対話になりうる。他者とは「私とは異なる視点状況、異なる身体状態、異なる意味秩序」をもつものであり、そのいづれに対しても私と他者の意味の差異は現れ得る。

また、親の死と悲しみにおいて、一般的にそういうもんだという間主観的意味と、私がそこに見出す意味とは、違う。では我々が見出す意味とは何が原因なのか。みんなそうだから私も悲しいは一般的意味を根拠とする。しかし私はどうかというのは何を根拠にする?私の文脈か?私の物語か?

 

 思考について

 「他者の思考が問われるとき、必ず問いが向けられるべき発言ないし行為が相手にある」216

 つまり相手の発言や行為に対する意味づけの散乱が、この問いになる

→では相手の発言や行為などの外面化されたものとは違い、他方伝えられようとしていた思考はその人の心=内面にあるのではないか

→テレパシーで中国人の思考を読んだらどうなるか。中国語を読み取るのか。否、「言語以前の無垢の思考」を読み取るのだ

→「思考は言語とともにある、いや、もっと強く、思考は言語においてある」218

 書かれ、話され、もしくは内語としてある。よって中国人の思考は中国語、テレパシーでもわからない。

 言葉の意味は反転しうる、よって他者の言葉を理解するためには文脈を理解せねばならない。「他人の発話を正当に理解しようとするならば、その発話のアスペクトを固定するべく、その発話が位置づけられる『文法的連関性』を手繰りださねばならない」220

 「他者の思考とは、表向きの言語表現に隠された内なる心の内容ではない」220

 

※うーん、根拠薄弱。発言だけ取り出して理解するのではなく相手の文脈=物語を読まねばならないというのは確かに。なんなら相手自身も、自分がなぜそれを思うのかわかってないことがあるだろう。私自身そうだろう。私の現在の世界への意味づけは、私の過去の経験から編み上げられた文脈がある。

ただ、黙考というものもある。このとき、外面化されてないが内面化されている思考というものはあるだろう。嘘だってそうだろう。思考が外面、思考以前が内面、というのは違うかもしれない。もしくは思考以前は思考ではなく、感情に近いかもしれない。しかし外面化された思考と内面的な思考というものはあるようにも思える。それもまた、内面ではなく、私には理解できない他者の意味の世界、なのだろうか。語った上でわからないということと、語らないからわからない、ということがある。思考はないが感情的にモヤモヤしていることはある。思考はあるがそれを外面化していないこともある。どちらも意味としての眺め、だろうか。うーん。

 

 意図について

 われわれはいつ、意図を意識するか。

 行為の最中、意図が意識化されることはほぼない。それは、「行為の最中にあって、ほとんどの場合に意図が単相的だから」221 

 「自分の意図を自覚するということは、たんにイメージを思い描くことではなく、むしろそのイメージが位置づけられている行為の連関性、すなわちそのアスペクトに思いを馳せることなのである」223

 「私が意図を自覚するのは、行為の選択に関して私自身が検討し、評価し、決断するとき、あるいは、他者によって私の行為の意図が問われるとき、すなわち、なめらかな行為の裂目に生じた複相状態においてなのである」223

 他者の意図に関しても、ある行為に関しての意味づけが単相的ならば問題にはならず、その行為の連関性、意味が複相的になったとき、意図は問われる。

 そして他者の行為の意味が問われるか否かは、私の関心による。

 「行為の輪郭が単相的に安定するのは、むしろ私の無関心によっている」227

 

 「知覚・視点状況および感覚・身体状態の議論、すなわち眺望論の議論は、すべて単相状態の場面にほかならなかった」228

 「いかにして他者は意味の発信源たりうるのか。そしていかにして私はそれを理解しうるのか。これが問われるべき問題にほかならない。」228

 また、「『私』自身の内にもこうした意味散乱の現象が生じていることが捉えられるだろう…私は私自身について必ずしも透明であるわけではない」229

 意味に関しては一人称の特権性がある。すなわち、本人に聞かねばわからない。しかしまた、自分で自分のことも理解しきっているわけではないという、「一人称の暗部」というものもある。

 

 <私>=単相的なもの

 「私」=複数の<私>を持つ複相的なもの

<他者>=<私>と異相的なもの

<私>は<他者>と出会うことで複相状態になる、すなわち<私>から「私」になる

そして単相的な<世界>は崩れ、<心>が姿を現す。

 

 

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 眺望論と相貌論に関しての議論であった。大まかにまとめる

 内界と外界があり、内界が心だと思われていた。しかしわれわれは皆、異なる眺めを経験しているのである。そしてその眺めの異同から、考える。

 眺めには眺望と相貌がある。

眺望=パースペクティブ…単相状態

①知覚ー視点状況

②感覚ー身体状態

相貌=アスペクト…複相状態

 そして相貌において、単相的な意味が崩れ、私には到達し得ない他者の相貌=意味世界と、私の意味世界とが分化される。これが心である。

 

 結論、他者の心がわからない、という点には変わりはない。なぜわからないのか、が違うのである。それは、私は他者の内界に到達し得ない、からではなく、異なる意味づけを行うことがそもそも私と他者の成立の条件だからである。

 しかし不思議なことに、われわれは自分のその、他者とは違う意味秩序=心に関して、他者の承認を求める。そもそもが異なる故に成立したのに、同一化することを求める。心を巡るこの差異と同一のダイナミズムななんなのだろうか。

 

 そしてここまでやって、私の問題にしたいことはまた別であったことがわかった。それはまさに、同一化を巡る問題である。私と他者は、世界の眺め(現象)の差異から生まれた。にも関わらずこの差異に関しての同一化を求める。これはどういうことだろうか。

 なぜ、われわれは分かり合えないのか。これが私の問題意識だった。そしてそれはこの本で、かなり考えることができたような気がする。思えば、第一章は「自我」に関する心身二元批判=主客問題であり、第二章は他我認識に関する心身二元批判であった。そしてこの二つの結論から、内と外ではなく、世界現象がそこにあることがわかった。われわれは異なる世界現象を持つのである、と。そしてその異なりから、分かり合えない心という部分を描写して見せた。

 しかし私は私の問題をさらに掘り下げる。なぜ分かり合えないことが問題だったのか。それは私にとって、「わからない他者」が恐怖だったからである。しかしこの恐怖は、世界の見え方の違いに関して、ではない。いや、付き合いの長い友人に対して、世界観の違うことによって感じる恐怖や孤独は、確かにある。しかしそういうことではない。そこではない。

 わからない他者、というとき、それは他者のもつ世界現象がわからない、ということであるが、その世界現象の中には、「私」が含まれている。それこそが私の感じている恐怖の問題ではないだろうか。私に向けられる他者の意味づけ、他者の「目」が私は怖いのではないだろうか。

 私は他者の前にすくんでしまう。ただ黙り、何もせずじっとするほかないということが多い。なぜか。それは意味づけに関する拒否、ではないか。私の心は私の発言や行為によって示される。その示された私の心に対する他者からの意味づけ、評価の拒否ではないだろうか。

 いやしかし、そうでもない。怖いのは最初だけ、である。初対面の人でも話していく中で、自分を出していくことはある。確かに言えないこともある、評価されることが怖い私の意味世界もある。しかしそれもまた私の根っこにあるものではない。問題は最初にある。

 それは、関係のスタートするその瞬間、ではないか。いや、どうだろうか。

 

 この前、先輩と飲んだ時の話。付き合っても幸せにできるか不安なんすよね、という話。でも断る権利は向こうにもあるよと聞いて、スッとした話。実はこの会話の中に、私の問題の根本がある気がするのである。

 付き合って幸せにできるか、あれができるか、これができるか、というとき、そこには自由の主体としての他者は存在していない。二人の関係において変数は二つあるべきなのに、私は他者を固定値として見ている。私→他者ということばかり考えて、他者→私をあまり考えていない、のだろうか。私と他者は意味秩序が違う。それはそのまま、価値判断も違うということ。よって私の発言や行為が価値あるものか否かも、他者の目に晒さなければわかりはしないのにも関わらず、私は先に決めつけていないだろうか。私は他者を殺しているのではないか。

 

 世界現象の異同をめぐる私の他者の心の問題。しかし私の問題は、その意味づけの目線を投げかけ合う我ー汝の関係の問題である。それは関係のスタートから、関係のゴールまで含めて、である。ヘーゲル精神現象学、ではないよなぁ・・・。

 

 いくつかの疑問をもう一度。

 知覚ー視点状況と感覚ー身体状態に関して。私の見ているこの対象、「ペンが見える」というのは、私に見えるものである。こう考えてしまうと、彼に見えるペンを想像するとき、それは彼の位置から見た私によるペンであり彼のそれではない、ということになってしまう。感覚も同様。私の痛みを彼に類推しても、それは結局私の痛みである。

 故に眺望論では「私」というものを省いている。ペンは「ここ」に対応して見えるのであり、痛みは「この身体状態」に対応して存在する。故に「ここ」に入れば誰でもそう見えるし、「この身体状態」になれば誰でも痛い。

 では、「ここ」から見えるペンと、「私」から見えるペンは、どう違うのか。または「私」の痛みと、「この身体状態」の痛みとは何が違うのか。

 これはそもそも、私とは何か?という問いに答えなければ先には進めないものではないだろうか。そして独我論においては私は登場し得ない、ということはわかった。

 複相と単相の違いなだけなのではないか。複相状態になって初めて私は生まれる。単相状態では私と他者は一致している、意味において。しかし意味において一致していることが、私と他者が同じものを見ていることになるのだろうか。

 ここに何が見えるか、と問われた時、「赤い缶コーヒーが見える」と私がいい、彼もまた「赤い缶コーヒーが見える」という。それでもなお、私と彼に見えているものは違うと考えることはできないだろうか。だって私は彼にはなれないのだから。この懐疑はどこからやってくる?

 「赤い缶コーヒーが見える」という知覚に、「私」は必要だろうか。「私には赤い缶コーヒーが見える」というのは私の視点状況を述べているだけである。

 この世界現象の一切が「私」に対応している、という考えが間違いなのだ。だから、私に見え、感じる世界は、他者にはわかり得ない。また他者の世界もわかり得ない。私と他者の間には断絶が起きてしまう。では世界現象は何に対応している?視点状況と、身体状態と、そして欲望関心である。どこに私が現れる?

 私とは「ここ」か?私とは「この身体」か?私とは「欲望」か?ここから見えている対象は明らかに私に見えている。この身体で感じる痛みは明らかに私の痛みである。この欲望から見出される意味は私によっての意味である。全て私がつく。

 私は彼にはなれないという時、何が同じになれないのか。何が違っているのか。わからない、ただ、私には彼を経験できないというだけである。しかしそうか?例えば私の中には複数の私がいるのである。様々な意味づけがあるのである。だから葛藤するのである。私は一人、だろうか。

 例えば虚想もそうである。ここから見ながら、向こうから見ることもしているから、厚みのあるモノとして認識できるのである。しかしそれは複数の私がいるというだけのことであり、その中には一人も彼はいない。つまり彼はやっぱり経験はできない。

 私と彼が同じものを見ている根拠は言語を通してしかない。ここに何があるか、という問いに対して、「缶コーヒーがある」と言い、そこに意味のズレがないからこそ、同じものを見ていると思えるのである。単相か複相かが別れるのは言語実践を通してのみである。そして知覚と感覚に関しては単相のままで止まるだろうが、意味を語り合うことで複相になる。ここだったらみんな同じに見える、この身体状態だったらみんな同じ痛みを受ける、というのは本質的ではない。その時の言語実践が同じだったからこそ、である。いやーわからねー。

 

 パースペクティブでは単相状態、というのも納得がいかない。本質的なのは単相か複相か、である。私が見たこともないものを見た他者と私の間では意味の散乱が起こる。私がなれない身体状態の人との間でも起こる。そして関心の有無による意味づけ、感情の経験もまた。知覚ー視点相関的、感覚ー身体相関的、意味ー欲望相関的、とする時、視点、身体、欲望の共有可能/不可能性が、単相か複相かを決める。いや、そうだろうか・・・

 この章はなかなか理解できないことが多い。なんだろうなーなんでだろ。 

 

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