【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「哲学カフェにて」

 哲学カフェ、なるものに行ってきた。

 

 結構多くの人が、結構重いというか、真面目というか、生きることに欠かせないテーマというものに対して色々考えていて、しかしその考えを誰かに聞いてもらったり、対話の中で深めるという場がない。私はそういう場を作ることができればいいな、という個人的な思惑というものもあったりする。ので、まずは参考にということで行ってみた。

 ただ人を集めて、テーマを投げて、それでスタート、といっても豊かな対話になるかどうかは微妙である。そこで必要なのはファシリテーターである。

 対話が滞ったらより本質的かつ広がるようなテーマを投げかけねばならない。意見が対立し始めたらその意見をうまくまとめていかないといけない。そういう方法ってどんなもんだろうかなーと。まずはみてみようと。

 

 で、見てみたんですが・・・いやー難しい。

 哲学カフェといっても、各々が自分の思っていることを提出する。私のみた範囲でどんな人々がいたか述べてみると

 共我論なるものを持っている人

 霊が憑依するという人

 割と知識がある人

 言葉の定義をしっかり決めたい人

 ただ聞いているだけの人

 実践ベースで考えてる人

 自分の経験を根拠に考えている人

 漠然と問いを出す人

 

 ざっくりと分類してみよう。自分の意見、価値観の根拠を、

①信念ベースで持つか

②推論ベースで持つか

③経験ベースで持つか

という3パターンがあったような気がする。

 信念ベースの人は信仰なので、なんとなくそう思う、以上のことは言えない。なにがしかの物語的整合性が取れればそれを信じることができる人だろう。

 推論ベースは概念や理論を根拠にできる人、というイメージ。逆に経験ベースや信仰ベースで語られると根拠は何?定義は何と問わずにはいられない。

 経験ベースは自分の経験から語ってくれる。わかりやすいと言えばわかりやすいが、狭い。自分にしか根拠を持ってこれないから。

 

 この人らが、自分の枠組みの中から、自分で考えた答えを出し合う。そして多様な意見が出た後のテーマの深め方も、またこの3パターンに依存する。こんな多様な人らの意見を、何をどうまとめれば、うまくいくのだろうか。

 今日のファシリテーターの人は、基本は全体に任せて、所々で質問したり議論をまとめたりしていたが、特にファシリテーションしようという感じは見られなかった。ディベートではないので、沈黙もまた各々が考えを深めるいい時間であることを考えたら、急かさなくてもいいのかもしれない。

 なんか、意外とできそうだな、という気がした。おそらく私のような、分析人間にとっては、その場ででた意見を理解し、概念を整理し、これはこれ、それはそれとし、そして問いを深めていく、ということは、得意といえば得意といえるかもしれない。

 しかしこういってはなんだが、理解力のある人とそうではない人もいる。自分の枠組みでしかものを判断できず、自分の正しさの中でしかものを見れない人もいる。難しい話をしたいというか、もっともっと深めたいという人もいれば、あまり抽象的な議論はできないという人もいる。レベルがあるといえばレベルがある。

 そうするとあまり分析して抽象的にまとめすぎるのも良くないのかもしれないなーなんて思ったりもする。

 

 できれば、それぞれの意見があることを認め合って、その上で何かこう深い結論というか、いや、結論が出ることはそんなに重要ではないのか。自分とは違う他者に出会うことが大事である。

 だからこそ、排除ではなくて、どんな意見でも受け入れることが重要になる。でもそうするとただ受け入れるだけ、になる。相手の意見に対して、どんな問いが、良い問いなのだろうか。

 自分とは違う他者に出会うということは、自分というものが壊れる可能性も含めなければならないということである。相手を受け入れるということは、相手を受け入れることができるだけの自分になるということである。

 しかしそれは自分を壊す、のではなく、自分を広げる、ということではないだろうか。

 

 やっぱ、私が付き合っている人間関係というものは、狭いな、と思った。

 もっと多様な人と付き合うことで、もっと付き合ったことのない、もっと知らない価値観の中に、自分を入れて見ないとなーなんて思ったり。そんな中で、自分とは違う他者とどう付き合うか、考えていかないといけない。

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