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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「意味現象における自我と他我」

 意味としての現象世界、これがまずある。そこでこの意識による意味現象とは異なる意味現象と出会う。そこで初めて、一枚岩だった意味現象から、他者と私と、そして同じ意味としての客観なるものが姿を表す。

 しかしこれもまた全て、この意識の中での現象である。つまりこの意識の中に、「他者とは違う私の意味現象」と「私とは違う他者の意味現象」と「私も他者も同じように考えている意味現象」という3つの領域が生まれる。この意識の中に。

 それぞれ自我、他我、共我と呼ぶとする。さらに、その意味の形成の仕方として、レイヤーが分かれる。知覚的意味、感覚的意味、そして欲望的意味である。

 知覚的意味においては視点状況がほぼ同じなので自我と他我の区別はなくほとんどが共我である。感覚もまた、身体状態に違いがない限りはそうである。ただ視点状態が違うとき、私はここにいて彼が向こうにいるとき、私は向こうにいる彼の他我から彼の視点を見る。同様に身体状態もである。しかし身体状態は視点ほど彼の状態に想像で近づくことはできない。

 問題は欲望的意味である。欲望的意味は価値審級に関わる。このレイヤーでは、自我と他我が食い違う。私が価値があると思っていることは他者もそう思っているわけではない、とこの意識の中で思っている。するとこの意識の中で、「私が思う価値」と、「他者が思うであろう価値」というものが分裂する。

 これが、他者への恐怖の内実だったのではないだろうかと、今日思った。私には価値がない、私は恥さらしだ、というのは他者がそう思っているのではなく、この意識の中にある他我(フロイト的には超自我)がそう思っているに他ならない。

 

 さて問題は、意味そのものについてである。価値そのものについてである。それは価値があるか、良いとは何か、我々は根拠を持ってそれを抱いている、わけではない。特に私にとって価値あり、というものは、私の欲望が、感情が、それを教えてくれる。しかし他我にとっての意味とは、その根拠はこの感情にはならない。では何を根拠にそう思うのだろうか。それはかつて、そういう意味づけを持つ他者に出会ったこと、それだけである。

 何か思っていることが私の中にあったとする。しかしそれを彼に言えないとする。それは価値に関するなにがしか(私はそれが良いと思う)と言うことだったとする。なぜ言えないか、それは、相手にとってそれが価値有りかどうかわからない、からである。もしくはここで自分が発言することそのものが、良いことかどうかわからないから、である。これは、他者がそう思っているのではない。他者が、私には発言する価値はなく、発言の内容にも価値がないと思っているから、ではない。相手はこう思ってるかもしれないという、この意識の中の問題なのである。

 私はこの他我意識なるものを、破壊しなければならない。なぜか。

 

 ここ最近、多様な価値観を受け入れるということについて、心がけてきたつもりである。しかし多様な価値観とは多様な意味を受け入れるということ。それは良いも悪いも、善も悪も全て受け入れるということ。そうして受け入れた意味の総体を、私はどのように選りすぐればいいのだろうか。この点が足りてなかったのである。私は意味の中で溺れていたのである。だから何が良いのか悪いのか、さっぱりわからなくなったのだろう。

 価値の基準を決めるものは何か。この私の情動、だけではないだろう。それは根拠ではないかと考える。ここで、価値妥当の成立条件ということが問題になる。

 意味もまたそうであるように、価値もまた文脈に依存する。どのような文脈で語るか、その文脈に応じて価値の強さは決まる気がする。厄介なことは、この文脈がなくとも、人はある種の価値を信じることができるということである。

 例えば、私は電車で年寄りに席をゆずるのが苦手であった。もし断られたらどうしようとか、周りに白い目で見られたらどうしようとか、年寄り扱いすんなと言われたらどうしようとか考えたものである。どれもこれも、可能性としてはゼロではない。しかしそれぞれ考えて見ると、全く根拠のないものであることがわかる。

 断られたらどうするか。というかそもそもなんで席をゆずるか。それはお年寄り、杖をついていたり腰が曲がっている人の方が、私より立っているのは辛いからである。私が座るよりも、その人が座る方がいいだろう。これはただの優しさである。ピンピンしてる人ならば白毛が生えていようがゆずる気はない。年寄りに限らず、子供とか、子連れのお母さんとかもまた、立ってるのは大変である。つまり私よりも弱い立場にある人に私はゆずるのである。その同じ状態であっても私より辛さを感じるであろう人にゆずるのである。

 ではなぜ断るのか、である。年寄りにはいい人もいて、遠慮というか謙遜で断る人もいる。これはびっくりである。私よりも立っているのが辛いのに、申し出を遠慮して、気を使って断ってくれるのである。どこまでいい人なんだという話である。こういう人にはむしろ強引に座っていただく方がいいかもしれない。

 もしくはすぐ隣の駅で降りるから、というパターンもある。これはまぁ、いいだろう。

 年寄り扱いすんな、という人もいるかもしれない。しかしあいにく私は出会ったことがない。普通、相手が仮に若者であっても、譲られるとありがたいと思うものではないだろうか。それを譲られて年寄り扱いすんなってのは、なんかその人の方がおかしいと思うものではないだろうか。自分を年寄りと思いたくない妙なプライドが、こっちの優しさをはねつける。そのプライドはまぁ、わかるかもしれない。でもそれでも、優しさをはねつける理由にはならんだろう。そんな人がいたらすいませんっつってまた座ればいいだけの話。素直じゃねーなこの野郎、と思うだけである。

 どれをとっても、私が席を譲らない理由にはならないのではないだろうか。こういうことである。相手の立場になって、根拠を持って徹底的に考える。この姿勢がなかった。この姿勢がなければ、悪口だろうがなんだろうが、意味そのものを全て真に受けてしまうことになるのではないだろうか。

 価値をめぐる思考や行動は基本的には、私のためか、相手のためか、というものである。そして相手のためが苦手だった理由は、他者の心がわからないからではなく、この意識の中にある他我の価値秩序の根拠を問うていなかったからに他ならない。哲学をやっているにも関わらず、根拠を問わないとは!恥ずかしい!

 

 人の心は、わからないのである。しかし意識の中には他我がある。これは今まで出会ってきた異なる意味秩序としての他者の経験から、作られたものだろう。この他我と他者がずれるとき、我々はあれ?と思う。良かれと思ってやったのになんか違った、とか。これをやったら相手は喜ぶだろうなーというとき、喜ばなかった、とか。それは他我認識と他者の意味づけがずれていたのである。他者はわからない、これは本当。しかしそれでも時にわかったりわからなかったりというのが現実であり、それは他我と他者のズレによるものだと考えられる。

 また他我の目線は自我の価値を決めようとする。そしてこれも、根拠を問わねばならない。ただの悪口であることも多い。ちゃんと的を得た他我からの批判なら、受け止めるべきである。

 

 が、これまた難しいのは、じゃ根拠がなければ受け入れないのか、というところである。価値判断の根拠をどこに置くか、ということである。自分においてしまったら、自分から出られなくなる。しかし根拠なしにしたら、なんでも受け入れてしまう。

 うーん、なかなか難しい。でももう一度、自分の価値判断というものをしっかり、根拠から考えてみようかと思う。他我の批判に耐えながら。たぶん、今までとは違う世界が開けてくると思う。

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