【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「これは思弁哲学だろうか」

 騙されないための哲学、とは。

 私は考える。しかしただ考えているだけだった。もっとより良く、考えなければならない。しかしそのような思考とはどのようなものだろうか。

 推論、論理のみを根拠にすることは大陸合理論的な、思弁的な哲学へと進んでしまう。つまり言葉と言葉のつながりだけを根拠とするフィクションになる。デカルトの神の存在証明なんてまさにそういうものではなかったか。

 しかし一方、経験だけを根拠にすることもできない。第一経験は自分の中だけにとどまってしまう。自分だけが真理となってしまう。これでは他者を排除してしまう。それに経験とは何か。そこには事実と、そこから見出せる意味とがある。老人に席をゆずる、という経験はそれだけ見ればただの事実。そこにどのような意味を見出すかはその人の関心によってしまう。

 こうして、経験と推論の中庸を取ったのはカントだった。さらにそれを推し進めたのはフッサールだった。しかし私は彼らから、何も学んではいなかった。だからまんまと騙されたと、いうべきではないだろうか。

 

 過度の抽象化も如何なものかとも思う。実践は理論に、具体は中傷に、実存は本質に先立つ、といったのはサルトル。我々はあくまで具体的な経験から抽象概念を見出している。それを忘れたら抽象から抽象へ、つまり思弁哲学になってしまう。

 経験を材料に、それを意味(抽象)へと構築するカテゴリーがある。カントはそういったんだったけ。フッサールはこれを鵜呑みにせず、内在から超越へと構成される様を経験から見出した。

 先日哲学カフェに行った時も、みんな自分の経験からものを語っていた。ああいう姿勢こそ哲学ではないだろうか。根拠の有無がはっきりしている。対して、抽象概念だけで語ることは思弁哲学に陥りやすい。我々はペガサスを意識で想像できる、つまり馬+翼という組み合わせを意識内で構成することができる。しかしペガサスは嘘である、なぜならこの世に存在しないから(今の所は見たことがあるという報告を聞いたことはない)。この想像力は人間の強みでありながら、弱みでもある。

 

 根源的明証性、これこそが疑い得ぬもの。しかしそれだと、信念はどうなる。何かを本当に信じている人にとって、例えば神の存在を信じている人にとって、それは明証的だとは言えないだろうか。いやしかし、直観として与えられているわけではないだろう。意識に直に立ち現れるもの。知覚においてはこれが明証的だと言えるかもしれない。しかし私の考えたいことは意味や価値の問題である。これは意識に像として現れるわけではない。むしろ快不快、感情として、現れる。

 しかし快不快が価値を見出すのか、価値が快不快を与えるのか、それはよくわからないわけで。快不快から与えられた価値をベースに新たな快不快が生まれ、そこから新たな価値が見出される。その構成の様は、さすがに全てを語ることは難しいだろう。

 

 いや、これもまた思弁哲学だろうか。

 

 私は私の意識の中に作られた意味秩序のみしか問うことはできない。他者はそれをはみ出るもの、として私の意識内に存在している。だからどこまでも対話する必要がある。同様に他者にとっての私もまた、彼の意識内の私だけであり、この私と一致しているわけではない、という私の意識内の確信がある。だからこそ私は、自らを問いに伏す必要がある。私は彼を誤解する可能性はどこまでも存在し、そして私は彼に誤解される可能性はどこまでも存在する。

 でも世の中には、私の思う彼が彼である、という意味世界を生きる人もいるのであって。つまりやはり意味世界は、想像されたものそれが彼にとっての真実になる。しかしその意味的真実と現実は食い違う。からこそ、そこに問いの可能性が生まれるのである。

 

 現実は理念に先立つ。常に現実から、考えなければいけない。現実なき問いは思弁的である。しかしその現実もまた、我々の意味世界によって作られたものではないのか。

 私は彼はこういう人だと思っている。しかし、話してみると、そうではなかった、ということも多い。これはつまり、「私の思う彼」と「彼」がズレていた、ということになる。これを誤解という。ここでいう「彼」は、現時点での「私の思う彼」であって、過去の時点の「私の思う彼」よりも、より「彼」に近いものだという確信がある。私は対話を通して、どんどん彼を理解していく。私の中での「彼観」はどこまでも大きくなる。しかし彼そのものには到達し得ない。彼もまた成長し、彼の中での意味秩序は変更していくからである。私にとって他者とは、「私の思う彼を常に超えて、そして拡大し続ける存在」であるということになる。

 同時にまた、彼にとっての私もそうである。つまり他者とは、「彼の思う私を持っていて、それはどこまでもこの私より小さく、そして私も拡大する、と思っている存在」ということにもなる。この拡大は、対話の中でも生まれる。つまり相互理解と相互拡張が同時に起こる。相手の意味を受け容れることで相手を理解しかつ私はそれを聞く前の私とはもう違う。彼も私の意味を受け容れることで私を理解しかつ彼はそれを聞く前の彼とはもう違う。

 

 これは思弁哲学か?根拠はないか?

 現実をよりよく説明するのが哲学であるならば。私と彼をめぐるこの対話のダイナミズムは、現実を説明してはいないだろうか。思弁に陥らないためには、どうすればいい?自分が今まさに経験していることから考えること?もしくは経験したことから?まずは経験をもってこいということか?経験から始まらない思考は思弁か?

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