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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「ゼミにて」

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 野矢さんの『心と他者』を読んで、こんなことを書いた。

 

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まず他者の心に出会う以前の状態として、独我論的世界現象がある。そこでは主観と客観の区別もつかない。おそらく、モノは外界に、感情は内界に、という区別もつかない。「私」という意識も存在していないかもしれない。

 そんな独我論的世界現象が他者の心と出会うと、上記のように3つの領域に世界現象が分かれる。この3つの領域は、どれから生まれるか、ではなく、他者との出会いとともに、3つとも同時に生まれるのではないだろうか。

①他者の世界現象ではない私の世界現象=私の主観

②私の世界現象ではない他者の世界現象=他者の主観

③双方の世界現象の共通項=客観

 個人的には、客観は間主観(みんなの主観が一致)なのだということはどこかで聞いていたけど、私の主観は他の主観との差異によって生まれるということは発見だった。

 「他の主観」と書いてあるけどこれは他者の心がわかっているのではなくて、私の頭の中にある「みんなってこういう風に考えているのではないか」的な意識のことではないか。故に私の意識内の「他者の主観」と他者は、ずれる。

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 これを持っていってゼミで発表。いろんな意見もらいました。

 先にゼミの感想を書いちゃうけど、楽しかった。やっぱいろんな人からいろんな議論が出てくるのはいいなぁ、と。それはきっと、具体的なレベルで語ることができていた(他のゼミ生とか先生のおかげ)からだなぁと思った。

 この前哲学カフェに行ったけど、そこでもあくまで経験の具体的レベルで考えていたし、授業でとってる「子どもの哲学」でも同じだし。誰もが哲学をできる。そのためには経験から語れるように、そこからそして深めていけるように、ということが大切なわけで。

 哲学とは、全経験、世界現象の概念化による言い換え、そして言い換えを通してのより良き説明なのだと思いました。哲学することで、昨日よりももう少し世界が、自分が、他者が、クリアに見えればいいなぁ、なんて思いました。

 しかし今の俺にはその能力はまだない。考え方がぐちゃぐちゃ。専門用語を操るだけで中身スカスカ。何がまずいのかもわかってない。もっと思考の原理を突き詰めないといけない。でもどうやって?

 まずは、やっぱり現象学を勉強しようと思う。知るだけじゃなくて、実践レベルまで使えるように。竹田青嗣さんのいうように思考の原理としてはこれ以上ないところまで行っているのであれば。そして事実、私はこの人の本にすごく説得力を感じるしね。

 合理論は論理だけで変なところにいった。経験論は経験の根拠で立ち止まった。その先から生まれたのが現象学。野矢さんの本は決して現象学の本ではないのに、その思考法が見えるような気もする。それはつまり、当たり前に感じていることを根拠に、概念を抽象化していくこと。哲学が全経験の概念的説明ならば、その概念はそのまま具体的現実に言い換え可能なはずである。これができなくなるのは概念から概念へ論理のみによる言い換えをして飛躍してしまったからではないか。

 

 どんなテーマがあるにせよ、それについて「哲学する」ということについて、もう一度考えてみないといけない。

 

 さて、ゼミででた意見を踏まえ。

 上記の3分類でも、客観とかはイマイチ掴みきれない。私の思うことと相手の思うことが一致しているだけでは客観とはならない。やはり主客はグラデーションではないか。

 ここでは円が2つだけだが、実際は無限数の円が重なっている。するといろんな価値観によって、重なる部分がすごく小さくなる。もしくは全く重ならない円も存在する。例えば幸福に関して、「殴られるのが嫌だ」という人と、「殴られるのがいい」という人の円は重なっていない。するとこの円の重なりの、点のような重なりの一点で言えることは、「幸福とは幸福である」というトートロジーである、ということになるのではないか。

→まず、この円は一切の世界現象について述べているのであって、知覚や感覚、意味、そして価値も含むが、それはおそらくレイヤーに分けて判断すべきである。そして価値のレイヤーにおいては確かにそうなのかもしれない。しかしその円(幸福とは何かに関する各々の価値観を表した命題)を成立させている根っこはあるのではないだろうか。例えば、「殴られるのが嫌だ」という人と、「殴られるのがいい」という人の円の根っこにあるのは、どちらもそれが「快」であるということである。そうすると幸福とは各々による快判断の充足、ということになる。こういう風には考えられないだろうか。これは個々の事例の共通項を引っ張りだそうという点で現象学的である。

 こういう価値判断における、他の主観認識と私の主観認識とその根っこにあるものとも考えてみたいとは思う。

 

 論理空間について。論理空間とは一切の可能性の空間である。私は今パソコンでこれを書いている。しかしそうではなく飯作って食うこともできた。もしくは今から30分後には飯を食うだろう、しかしこのままパソコンに向かってネットサーフィンすることもできる。こういう空間のこと。

 この論理空間が、世界現象の周りに存在しているのではないだろうか、という意見。

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こんな感じ。我々の心的経験、意識的経験の一切、の外側に、論理空間があるのではないだろうか。私は今パソコンを打っている、これは世界現象の中の話。しかしその外側に、パソコンを打っていない自分という可能性がある、こう考える。

→世界現象というものを実在的イメージのみ、と捉えるわけではない。意味の領域もまた、世界現象の中にある。そういうイメージ化されない、実在化されない意味秩序としての他者に出会うことが、私と他者の心の生まれる契機なのである。

野矢は心の生まれる契機として、単相状態と複相状態を上げている。これはパソコンである。この意味はこれ以外の意味づけとしては捉えることはできない。しかし幸福とは何か、という問いに関しては、実に様々な意味で捉えることができる。これが複相状態。この複相状態になることで、幸福をめぐる問いにはいくつもの答えが、意味連関が、文脈があることがわかる。

 

そう考えると論理空間は世界現象の外ではなく、中にあるものである。私は自分が今パソコンを打っていて、そしてこの後飯を作るかもしれないしパソコンをまだ打ち続けるかもしれない、もしくは今後ではなく今まさに飯を食う現実も存在したし、過去あんなことやこんなことをしないで済んだ自分も想像できる、という意味現象を見ているのではないか。

今目の前にパソコンがある。これがこの先、いきなり花になる可能性は考えられるだろうか。論理的には可能である。しかしとてもそうは思えない。この、論理可能性のなさを、客観の根拠と考えてもいいかもしれない。

また、私の論理空間を考えると、確かに今これ以外をする自分の可能性を考えることはできるが、事実やっていない。そして今後、どの可能性を選ぶかは私が決めることである。これに対して、他者の可能性を私は決定することができない。他者は1秒先に私の想像を超えた動きをする可能性がある。

いや、なんだかよくわからなくなってきた。もっと勉強する必要はあるなぁ。ただ、論理的にはいろんなことが可能だけど、それにも関わらず、という領域もまた存在する。他者はなにをするかは論理的には知りえない、にも関わらず、他者はこう考えていると思っている自分がいる。なんで?という感じかな。

今ちょうど、『心と他者』の第4章を読んでいて、おそらく論理空間に関する話にもなる。

 

世の中で売られているものは、我々に買わせることを目的に売っている。消費者心理学なんてもので、人々は何を買うか、なんていうのも研究されている。つまり、自分でそれを選んだと思ったけども、実は気づいてないだけで買わされている、のではないだろうか。もしそうだとして、その選択は主観的な選択だと言えるのか。

→主体的と主観的がごっちゃになっている。でも確かにこういう構造はどこでも言える。社会の構造に個々の人間は動かされているだけ、とか、無意識に意識は支配されているだけ、とか、販売者の思惑に購入者は無自覚に操られているだけ、とか。この、気づいてないだけで操られている問題みたいなのは、確かにある。

しかし何が問題だろうか。気づいてなければ、操られていても、それが自分の幸不幸の原因になっていても、問題はない。それに問題を感じるのはすでに気づいてるからである。では例えば、購入者が販売者の思惑を知って購入しなくなる、これも実は裏で別の思惑があって、私はそれに振り回されただけではないか、とは言えないだろうか?つまりどこまでも疑える。どこまでも、私は操られているだけじゃないか、と言える。

しかし確かに事実、操られている部分はあるだろう。私の欲望は私が主体的に欲しているのではなく、欲するように仕向けられているのである。でも、仕向けられることは何が問題なのだろうか。例えば本屋で売られている本は、完全に変われるように仕向けられている。しかし私はそれを買う。欲しいから。

それを買うように仕向けられている、それを欲するように仕向けられている。ここに感じる違和感は何か。うーんこれも難しい。思惑通りに動いて得た幸福は果たして幸福だと言えるのだろうか。やらされている、のは嫌である。しかしさも自分で欲してやったかのように、仕向けられているのはどうか。洗脳、とも言える。でも私が身につけた一切の社会性は全て洗脳ではないだろうか。

 

 こんな感じか。結局何がわかったって何もわかっていないわけなんですけれども・・・。

 うーん。難しい。具体例から概念を見出すように。現象学的に考える。うーん。

 

 

 

 

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