【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「わからない。何が?なぜ?」

 わからない。これが私の中の、問いだった。どうすればいいかわからない。

 するとまず、何が、なぜ、わからないのか。

 どう生きていけばいいのかわからない。

 何が正しいのかわからない。

 どうすればわかりあうことができるのかわからない。

 とりあえず今、パッと考えた感じだと、自分の生き方の理想、方向性、何が良い生き方なのか、ということがわからないのと、その上で他者との関係の取り方、信念対立の時、どうすれば分かり合えるのかがわからない、というところだろうか。

 もしくは他者とどう関わればいいのか、ということもわからない。これは話し方がわからないのではない。

 私は生きている。私は他者と交流する。そういう事実的なレベルで言うのであれば、何も問題はない。いや事実的なレベルでも、いわば当たり前の意味というものが見えなくなることもあるけど、それはまだそこまで大きな問題ではない。問題は、自分の生き方、他者との関わり方、この生における、価値判断の問題である、ということになる。私のわからないは、何が「良い」のかわからない、ということである。

 こういう問いを、逃してはならない。この根っこを。しかしこれは抽象的な話。私が生きているのは抽象ではなく現実の具体。今これを考えながら私は自分が経験してきた諸処の問題の過去の現実を思い出していた。そこでそれと重ねて考えてみる。

 

 わからない、何が、価値判断について、自分の生き方や、他者との関わり方について。

 しかし、なぜわからないのか。そして、なぜそれがわからないとまずいのか。

 

 なぜわからないのか。わかるとは何か。これが妥当の成立だとするならば、私の中での実感、「これだ!」とか、「これこそ正しい!」とか、そういう納得、確信がないということになる。そうか、私はこう生きたいのか、ということが、あまりない。まぁでも強いて言えば、こうして考えることを生きることにしたいというか、考えるという行為はやめたくない、というのはあるか。でもそれも強い納得、ではない。

 もっと若い時は、ボランティア運動に参加して、社会かくあるべしみたいな理想を持っていたし、人間かくあるべし、もっとみんな幸せになれよ的な関係に対する良し悪しも知っていた気がする。そういうスイッチがあった気がする。それは私がこの前面接に行った時に感じたやつ。自分だけを根拠に価値を考える。他者の目線を一旦放棄するというスイッチだったような気がする。

 私の中には今や膨大な他者が、他我意識が住んでいる。だから一つのことを、いろんな意味から考えることができる。いろんな文脈から考えられる。これは一つの言説を、どうとでも疑うことができるということである。しかし確信とは、こういう論理的懐疑によって壊されるようなものでもないのではないか。このいろんな他我がいなくなった時、それはスイッチが入った時や、酒を飲んだ時もそうだが、そういう時、私は自分の生き方に、もしくは抱いている理想に、確信を持つことができる。

 つまり、「なぜわからないのか」という問題は、私の中に様々な価値判断をする自分がいて、彼らの中での折り合いがつかないから。しかし、「彼ら」が眠っている時、私は自分の納得からものを語れる気がする。酔っ払った時だけ解放される相対主義

 しかしやはり私は、自分の人生に根拠と納得と意味を持って、理想を持って生きて生きたいと思う。だからこの状態は、あまりいいものではない。

 またこの問題は、なぜ他者との関わり方の良いがわからないのか、という問題とも密接に関わる。私の意識の中にいる「私」と「彼ら」の価値判断が食い違うことが、私が自分の生き方をうまく導けない原因だった。同じように、私が現実の他者と意見が食い違う時、私はどっちが正しいとか、その食い違いに対してどのような態度をとればいいのか、どれが良いのかわからない。つまり、それが自己意識内であれ、現実の対話的関係であれ、価値判断の乱立の中でどのように考えればいいのかわからない、というのが、私の問題なのである。

 

 もう一つの問い。なぜわからないとまずいのか。わからないままでなぜ悪いのか。うーん、なぜだろう。わからなくてもいいのかな。しかしわからないままだと、現実に関わっていくことができない。

 生きるとは実践である。我々はその時その時で自らの行動を選択する。その時々でどの選択をするかを決めるのは、自分の価値判断である。何が正しいのか、正しくないのか、何が善で、何が悪か、何が相手のためで、何がそうではないか、何がかっこよくて、何がかっこ悪いか。

 特に、その実践の結果が自分にだけ関わるような問題は、さほど問題ではない。私が一人で何をしようと、私の勝手であるというか、それにより被るものも、私がかぶることができる。問題は、私とは異なる価値判断を抱いている可能性のある他者に対して、どう関わるかという問題である。このような時に私はよくわからなくなる。

 例えば目の前の人が財布を落とした。どう考えてもそれを渡してあげるべきなのに、戸惑う、とか。例えば友達と意見が食い違った時、私はこれが正しいと思ってる、というか正しいとは言わないまでも、それが楽だとか、軽くそう思っていることに対して、そう言えないとか。そう考えると、私が価値ありと考える実践や基準が他者にとっても価値ありとされるかどうか、ということが問題、ということだろうか。

 そして自分の考える価値ありの行動が他者からもそうなのかどうかは、確かめてみないとわからない。もし価値なしとされるなら、それはきつい。のか?でもそういうことがわからないことで実践への躊躇が生まれることは確かである。そしてそれは自分をうまく表現できず、どこか押さえ込んだまま生きることにつながる。

 つまり、なぜ価値判断の根拠がわからないとまずいのか、それだとどのような価値判断に従って実践すればいいかがわからないから、そしてそれは辛いから、ということになる。いや、まだふわっとしているな。

 

 試しに何か価値観を披露しようか。

 人間いかに生きるべきか。この問いも、なんか、違うなぁ。これだと人間の一般共通としての倫理を考えることになる。そうではなく、俺は、いかに生きるべきか、と考えようか。

 私が自分の生において、最も悔しく、最も悲しく、最も楽しく、最も怒る時、常にそこには他者がいた。誰かを救えなかった時、自分の無力さが悲しく、悔しかった。誰かと笑いあって酒を飲んでいる時、語り合っている時が一番楽しい。誰かの何かをないがしろにしている時、そいつの無責任さと情のなさに頭にくる。だからやっぱり、他者というものが私にとっては大きな問題で、他者とともにいかに生きるかということが問題なのである。

 それはただ、他者と衝突なく、仲良しこよしで生きれえればそれでいい、ということではない。いや、しかし、違うな。

 

 私には過去がある。そんじょそこらの学生では経験していないであろう過去がある。そしてそのような濃密な過去のおかげで自分の中に確固とした価値観が作り上げられている、と、勘違いしていたのかもしれない。私は今、自己物語を、文脈としての自己の意味を持っていない。思った以上に出てこない。

 これは私が学問を、「私」をではなくて「対象」をばかり語っていたことによるのかもしれない。価値観の基準が、ない。なんなら私というものが、ない気がする。

 いやしかし、今考えている、この「ない」という価値観は、何かこう、社会的なものに自己を同一化したような、そんな大きな物語がない、ようにも思えるだけで、そうではない価値観はあるような気がする。いわゆる夢、みたいなものはない。将来的な目標というものもない。そもそも、必要ないと考える。私はその時々で自分の歩みを考えるから。将来はわからない、そういう人生だからである。

 だから、自分の人生に通底した夢、こうなりたい、というのはなくてもいいかもしれない。いやしかし社会かくあるべしみたいなのはどうだろうか。待て、なくてもいい?私は自分が夢や価値観を持つべきか否かで考えていて、持ちたいか否かでは考えていない。

 人生は山頂への登山ではなく、つまり目標達成のための道筋ではなく、登ることそのものであり、よりよく登ることそのものである。生きることは手段ではなくそれ自体が目的である。よく生きるとは、その果てに何か大きなものを得るのではなく、生きることそのものの深みを広げることである。だとすれば私は、何か大きな夢は必要ない。将来的な夢は必要ない。ただ毎日を、昨日よりも今日を、豊かに生きるための実践ができればそれでいい。そして私にとってそれは、考えることであり、他者と関わることである。

 生きるという実践をより深めるということは、私の中の人生観としてあるだろう。夢は必要ない。というか自分の未来に想定した何か理想的な実体、というものはいらない。人生は山頂を設定する以前に崖から落ちると決まっているのである。ならば、山頂が目的ではなく、むしろそれは手段で、山頂に登ることで登ることそのものが鍛えられるということの方が目的ではないだろうか。

 生きるという実践、生きるという作用。これを深める。これが俺の生きたい生き方。そしてそのためには価値判断というものが弱い。どうする?

 

 あ、でも、これは私の生き方の価値観であって、社会の問題は話が別なのかもしれない。いや、違うか?これももうちょっと考えたいな。

 こうやって考えることが多いから、自分の価値判断も定まらないのか?本質はどこだ?瑣末な問題に拘っては時間がなさすぎるし私の脳のキャパがない。本質はどこだ?

 

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