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【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「野矢茂樹『心と他者』 第4章の要約と感想」

 

心と他者 (中公文庫)

心と他者 (中公文庫)

 

 

第四章 規範の他者

※第一章で認識における内ー外つまり主客二元論を批判し、アスペクト一元論へ

→第二章で他者の心の認知と独我論批判による心身二元論批判、異なる世界現象の出会いの場へ

→第三章で世界現象の内実の探求、つまり眺望論と相貌論へ、そして相貌=アスペクトの差異が私の心と他者の心と世界を生み出す。心とは意味秩序である。

→ではアスペクト=意味とは何か。これがこの章の主題。

 

 「<他者>とは<私>と異なる意味秩序にほかならない」223

→では、「『意味』とは何か」234、これを何か内界にある一般観念のごときものとして求めてしまえば、また逆戻り。では意味とは何か。

 

1、<意味>の脱神話化

 「植物」という言葉を例に考える。この言葉を理解しているとはどういうことか。

→①その後を理解することで私にいかなる変化が生じたか

 ②理解せず口にするオウムと理解して述べる私の違いとは

答:「『植物』という語の意味を正しく把握している」

 =語の意味を正しく把握する

 →地層を観察するように、意味なる「対象」を観察すること?

  また「植物」という一般観念=本質の絵を描くこともできない

  見ることも描くこともできない「意味」とは何?

 

意味を把握しているかどうかより、その言葉を正しく使えるかどうかを問題にすべき

→水源地モデル批判

・水源地モデル

…「正しい言語使用は、正しくその語の意味を把握していることの結果にすぎない。すなわち、意味こそが使用の源泉なのである」242

→正しい言語使用=正しい意味理解+理解に基づく使用の規制

 

緑の色見本を生徒に見せ、生徒が同じ色として、レモンを指す

→色見本の<緑(これ)>と言葉の「緑」の関係=規則の問題

 (これ)と同じ色彩が緑、ではなく、これと同じ明るさを「緑」と言ってもいい

 この規則(言語と観念の対応)は恣意的、決められたもの

→水源地モデル=一般観念が把握され、観念と一致したものに言葉を適用

 批判⑴「把握しているとされる一般観念そのものがいかなるものであるのかがまったく不明確でしかない。」247

 批判⑵「何がその一般観念に一致するのかは、一般観念だけを調べても定まりはしない。…観念との一致不一致はわれわれの取り決めるべき規則なのである。」247

→「観念から使用が導かれるのではない。使用を規制する規則こそが根源的」247

=規則の根源性

 

※例えば「ヌヌヌヌ」という言葉がある。その意味、本質、観念は見当がつかない。しかしこの言葉がいつどのような時に使われるかを決めることで、この言葉の意味は定まる。よって使用を規制する規則(いつ、どう使うか)が、観念を決める。

 

規則のパラドクス

⑴数列の例

…生徒に「+2」という規則を与えるため、「2,4,6,,,」と続けよと教える。しかしなぜか1000以降に+4を始める

⑵プラスとクワス

…「xクワスy」は、xyどちらも57より小さければ普通の「xプラスy」で、xyいづれかが57より大きければ答えは5になる。

→具体例の複数の体験から一般的規則=意味(水源)を見出す、と思われがちだが、その規則はなんとでもいいうる。1000の次は+4であってもいいし、クワスであってもいい。逆に私が、1000の次は+2で、57より大きくても普通に足すことの方がおかしいということもありうる。

→意味の把握が使用の源泉ではなく、具体的使用の一歩一歩で規則は変更されうるし、意味も変更されうる。実践が規則=意味を作るのであって、「規則は行為の仕方を決定できない」254

=規則のパラドクス

 

※普通、頷きは肯定を意味するが、ブルガリア人では否定を意味するらしい。ブルガリア人に囲まれている状況を想像。頷き=肯定という規則は、変更されるのではないだろうか。では仮に頷きは肯定否定でなく求愛の意味であるという人が現れたら?

 

しかし、実際は規則は行為を決定している。

あくまで、「規則は論理的可能性としては行為の仕方を決定できない」255

が、「相手を選びさえすれば、そして因果的にであれば、たいていの場合、規則は行為を決定できる」255

→論理的可能性(理由)と因果的可能性(原因)の違い

「なぜaを為したのか」(1000の次に1002を書いたか)・・・⑴

「規則Rに従ったのだ」(+2に従った)

「規則Rのもとで、なぜaを為したのか」(+2のもとでなぜ1000→1002)・・・⑵

「だって、aはRの適用例じゃないか」(1000→1002は+2の適用例)

「規則Rには言われていない、なぜaが適用例だと思ったか」(1000以降+4でもいい)

「自然にそう思った」(2,4,6,,,なら1000、1002だろ)

「なぜ規則Rを示されたとき、君はaを為す気になったんだろう」・・・⑶

→⑴は理由の問い、規則=意味を問われているから

 しかし⑶は理由ではなく、原因の問い。そう教わり、習慣化しているから。1000→1002であるべき論理的理由はないが、「自然本性と訓練によって形成された私の行為のもつ慣性」=「行為本能」のため、自然とそう思った。

→⑴は規則を問い、行為の意味を問うため「理由」になるが、⑵と⑶は行為本能を元に規則から導かれた行為について問われているため、「原因」を問うている。

 しかし⑵で、「原因」を「理由」と勘違いしている。何か理由=意味があるはずだ、と。こうして行為の裏の裏に理由を問う=意味なるものがあって行為を為した=水源地モデルになる。しかしあるのは「自然にそう思った」という「原因」であり、理由や根拠はもう問えない。

 また、私は行為本能をもとに規則から導かれた行為を為した。しかしそれは周りの承認がなければ、規則の適用例とはならない。

 常識的には規則Rがあるからみんな一致して行為aを為す、だが、事情は逆で、「規則Rのもとにわれわれが一致して行為aを為すからこそ、行為aは規則Rの適用例とされるのである。」262

→この一致、周りの承認は、求めるものやべき論ではない。そうならばそうである理由がまた必要。それは「理由の秩序を離れた」「行為本能」であり、私は「他の人々も私と同じ行為本能をもつことを願うばかり」263

 

 

※行為本能は学習によって得られた規則に従う本能だろうか。行為について問われれは規則が出てくるが、規則に従うことを問われればそれは原因になる。

質問の際に手をあげる。なぜあげた?質問があるからです。なぜ質問があるなら手をあげる?そう教わっているから。教わった規則に従ってなぜ手をあげる?

これに対して、なぜ赤信号なのに渡る?急いでいるから、は問答になる。赤信号なら渡るなという規則を破った理由=規則を聞いているのであり、その規則は急いでいるときは渡ってよいというものだ、ということを答えている。これに対して「なぜ急いでいるときは渡っていいという規則に従うの?」と聞かれたらそれが行為本能。また急いでいるからといって渡る行為は禁止の規則に違反すると言われれば訂正すべきだろう。

意味=規則が言語使用や行為を決めるのではなく、実践が意味=規則を決める。それも一人ではなく、みんなの実践の一致が規則を決める。まずこの水源地モデル批判を抑えること。そして鋤が反り返るポイント=理由と原因の違いを抑えること。

 

 

2、記号のアニミズム

 「記号がたんなるインクのしみ、たんなる音声ではなく、意味をもった言葉となるのはなぜか」267

=言語論→表現の問題→水源地モデル批判→規則のパラドクス

 「他のものたちがたんなる肉の塊ではなく、心をもった人となるのはなぜか」267

=他者論→表情の問題→内界モデル批判→アスペクト

つまりこの二つの問いは、「内容的にもひとつの問題の二つの側面」267

 

 何が記号に生命を与えるのか

→使用の中で、もしくは使用そのもの

→「使用」とは?装飾としての使用?

→言葉として用いる。では「言葉として用いる」とは?

 

言語ゲーム

・・・大工が「スレート」と言い、手伝いがもっていく

→だったら自販機でもいい。何か、「言語」足らしめる前提を無視してない?つまり、ただ言語が交わされることではなく、それが「心あるもの」の実践という部分を無視してないか?

この点に関してウィトゲンシュタインは有意味なことを述べていない。

では、自販機の応答ではない、言葉の言語ゲームを成立させるような状況とは

 

語の印象ないし表情

…「語がもっている意味の顔つき、つまり一言で言えば、それは語のアスペクト」278

→たんなる、明るさや暗さといった口調、外的お飾り、ではない。

→ではアスペクトとはなんだったか

 

※この前の引用でウィトは、印象と意味を分けている。印象なき記号としてだけの言葉について述べている。だとすれば印象=意味=アスペクトというのはおかしくないか?

 

アスペクト

アスペクト把握において把握されるもの

…「その対象のもつ意味、その対象の見え方、見方」278

 「『あひるとして見る』という言い方は、その図形を『あひる』という語が属す意味規定=文法のもとに扱うということを表明している」279

⑵いつこのようなアスペクト表現をとるか→複相状態において

…単相状態=「他の見方、他の意味づけの可能性が意識されていない、見方や意味の固定された状態」279

 複相状態=「他の見方や他の意味づけの可能性が意識されている場面、意味の散乱が生じている場面」280

 

「あひる<が>見える」という体験がなければ、「あひる<に>見える」という体験もありえないが、逆は言えないという非対称性

→「〜が見える」だけ体験し、「〜に見える」を体験しない人間の想定

アスペクト

…「通常の知覚には何の支障もない、…単相状態に安住し、決して複相状態に出会うことがない。…<他者>に出会うこともない。いわば、アスペクト盲とは『意味の独我論者』なのである。」282

 

アスペクト把握=見方の把握=「そのものの属する意味上の連関性=文法をなんらかの形で主題化する体験」→アスペクト盲はこれを失う

これと関連する形で「意味盲」を問う

意味体験=意味の把握=「その語の意味上の連関性=文法をなんらかの形で主題化する体験」→意味盲は意味を失う?何を失う?意味体験は言語にとって不可欠?

 

随伴過程説批判

意味体験において「語の表情」が問題になる。

しかし意味体験とは「記号使用に随伴するなんらかの心的状態の体験」284のことではない。

「記号使用に随伴するいかなる心的体験、心的過程も記号の生命たりえない」285

「意味体験とは、記号使用においてその記号の文法を主題的に見てとる体験なのであり、記号使用の背後にあるものではない」285

 

※しかし記号に対応した心像のようなものがある気もする。しかしこの像はそれ自体また記号である。規則のパラドクスで、観念が使用を決めるのではなく使用の規制が観念を決める、とした。しかしこの観念は記号の文法の内にあるのであって記号の背後、私の心の中にあるのではない。随伴過程説は記号ー意味において意味は内界だということの批判である。心身二元論の身体ー心の、心は内界だという事への批判と同じ。

 

語りと示し

語や文は語られるが、文法(意味規定)は語られず、示されるのみ

 

アスペクト体験とは、「示されるべき文法がそこに姿を成して顕現するかのような体験」287である。それは「1,2,3,5」の数列に、当たり前に7を続けようとしたら、8という可能性を教えられた時の気づきである。その時アスペクトは変わり、表情は反転した。これは随伴過程のような心的体験とは明らかに違う。

 

※語りと示しの関係は、文法を示される言語を用いて文法を語っても、語ることでまた示される文法があり、それを語ってもまた…という、語りでは文法の外側に立てず、ただ語ることの内に、示されるのみ、ということ。永井均ウィトゲンシュタイン入門』の方が詳しい。でもむずい。

 

意味盲は何を失うのか

語の表情…「ゆでたまご」の例

「ゆで/たまご」と「ゆでた/まご」は、置かれる文脈や分節のされ方に応じて反転する

「語の形象はわれわれが思うよりもはるかに生々しく意味と結びついており、特定の文法的連関性のもとに置かれるべく『表情価』を帯びている」289

→「だが、こうした表情は、なめらかな言語使用のさなかでも生じているのだろうか」289

→なめらかな言語使用=単相状態=語のアスペクト的体験は生じない

→「通常の言語ゲーム、なめらかなコミュニケーションのさなかにあって、ひとつの記号がさまざまな文法的連関性の中に置かれうるなどということはけっして意識されていない」290

→語のアスペクト体験を持たないなめらかなコミュニケーションはわれわれも行なっている。しかしわれわれは意味盲ではない。故に、「意味盲とはけっして、通常の言語使用のさいに語の表情といった体験をもたない者のことではない」292

→「では、意味盲はわれわれとどこが違うと想定されているのだろうか」292

 

通常ゲーム

…「通常の言語使用、よどみのないコミュニケーション等の場面で為されるさまざまな言語ゲーム」292

アスペクトゲーム

…「端的な言語使用のレベルから身を離し、いくつかの選択肢を前にして吟味し、説明するといった場面で為される諸ゲーム」293

→語の表情=語のアスペクト体験が生じるのは「アスペクトゲーム」においてであり、通常ゲームにおいてではない

→「意味盲とは、通常ゲームにおいてアスペクト的体験が生じない者のことではなく、通常ゲームには参加しうるのだが、アスペクトゲームには参加しえない者のこと」293

→「意味とは使用である」というのは、通常ゲームにおいて言われたことだった。しかしアスペクトゲームにおける語りが「意味」の意味にとって本質ならば、このテーゼは変更されねばならない。

 

「通常ゲームを為しうる者のみがアスペクトゲームにも参加できるのであり、逆ではない」298

意味盲は「他の選択肢が意識されることのない端的な使用のレベルを離れることがない」=「つねに盲目的な言語実践者」299

→しかしこれらの規定は他者を排除したが故ではないか?

 

アスペクトと意味の関係がわからん。カナヅチ。その意味は何か。文脈によって意味は変わる。この時意味が主題化される。「ああそう意味でいってたのね」と。これはアスペクト体験と同時に意味体験である。だからアスペクト体験がなければ意味体験もない。見方が変われば意味も変わる。見方が変わった時見方=アスペクトは主題化され、意味が変わった時意味は主題化される。では意味とは見方か?と言われると違う。それは規則である。規則は使用を規定できない、使用の規定が規則を作る。では使用とは。通常ゲームとアスペクトゲームでの使用。アスペクトゲームでの規則の主題化が意味を浮かび上がらせる。通常ゲームでは金槌はひとつの意味でしか使われない。しかしこのような使用でも意味はあるだろう。

ダメだ、それこそ意味がわからなくなってくる。単語単語の、規則が壊れていく。意外に曖昧に受け取っていて、その曖昧さのままで半分無意識で言葉使っているもんで、それが意識化されるとどんどん曖昧な規定がわからなくなってくる。とりあえず先に進もう。

意味体験とアスペクト体験は一緒?意味に対するアスペクト的体験が意味を主題化する?

→意味体験は意味ー記号という二元論で語られ、アスペクトは対象と意味という認識的二元論で語られる。

 

3、自然と規範

意味盲に対しての疑問

「意味盲は規範性を失っているのではないか」300-301

→「規則的にふるまうことはできても、規則に従うことはできないのではないか」301

 

実践描写

…「規則抜きでは同定されえないようなふるまい」302の描写ex.言葉を話す

行動描写

…「規則とは無縁に同定されうるようなふるまい」302の描写ex.かくかくの音を発する

→実践描写に対応する形で行動描写をすることは可能

 

実践盲=規範盲

…「できごとを実践として捉えることができず、いっさいを行動として捉えることしかできない人」303

→「規範を自然的事実に還元しうるか否か」304

→不可能、なぜならある実践に対応する行動も、ある行動に対応する実践も無数に存在するから

=よってわれわれ実践者と実践盲とではコミュニケーションは成り立たない。

 

「意味盲とは実践盲であり、それゆえ規範盲なのではないか」305

⑴われわれは規則に盲目的に従う。

⑵この「盲目性」は、単相性ということにほかならない。

⑶意味盲とはつねに単相状態に身を置く者であり、けっしてアスペクト的意識をもたぬ者にほかならない。

→「意味盲とは『つねに盲目的に規則に従う者』である」306

 「それは盲目的ではあれ、規則に従って実践する者」では?つまり意味盲は実践盲ではないのでは?

→われわれも規則に盲目的に従う、しかしつねにではなく、時に迷う。意味盲は迷わない、アスペクト的体験はないから。しかし、「こうした迷いの完全な欠如はわれわれの実践概念を突き崩してしまうのではないか」306、「私は規則に盲目的に従っている、だがもしつねにそうであるならば、私は規則に従うこともできなくなるのではないか」306-307

 

アスペクト盲は何を失うか=複相状態にならず、つねに単相状態

これは、あひるーうさぎの反転図形において、他方のものの見方のみ、ということではない。「あひるとして」そして「うさぎとして」見えるのではなく、「あひるが」そして「うさぎが」見える。

→「アスペクト盲が経験しているのは、見方の変化ではなく、物の変化、すなわち『変身』なのである」309

→「アスペクト盲には見誤りがない」309

 さっき蛇に見えたけど縄だった、これは蛇に見えたのが誤り、しかし蛇が見えて、そして近づいたら縄が見えるのである。変身だから。

→このような変身世界では「変身の規則性を予想することが重要なこととなる」311

 つまり蛇が見える、近づいても蛇だろうと思ったら、縄になる。これは、予想が外れれるということ。

=「アスペクト盲の世界は変身世界であり、彼らは変身の見通しについて予測をすることはあるが、けっして『見誤り』はしない」312-313

 

この議論を並行に意味盲に持ってこれる

アスペクト盲には見誤りがない」ように、「意味盲には記号の意味を誤解することがない」314

→意味盲において意味理解の変化は端的に意味そのものの変化である。

→ここでは、「できごとの変身」、「変身する過去世界」315を想像する必要がある。彼が嘘をついた。しかし今や、彼は正しいことを言っている。ここでは嘘をついた過去はなくなっている。それを覚えているなら、嘘をついたことは誤解だったのだから。

→計算間違いもしない。誤った引き算は、規則に従い損ねた、引き算でないものを引き算として見てしまった、ということであり、ここには実行されなかった規則が見て取られている。この変化がないということは、さっき引き算と思ったものは、今は引き算でないもの、でしかなくなるということ。そしてただ引き算ではない記号、「213-57=166」は、ただの無意味な記号になる。

→「意味盲は規則を誤解することも、また理解しつつなお規則に従い損ねることもない」319

 変身するから誤解はない。規則が無意味に変わるから従い損ねもない。

→教育も不可能、犬の調教に同じとなる。規則性しか教えられない。ボールを投げ、取り損ねた。しかし彼らからすれば、取ろうとした、そして取らなかった、である。因果しか理解できない(ボールを持ってくる→餌をもらう)。故に規則を理解できない。

→約束も不可能。約束は新たな規則の創出であり、そもそもその規則を理解できないから。

→「かくして意味盲は、規則を理解したり誤解したりすることも、また規則に正しく従ったり従い損ねることも、そして約束を取り交わしたり新たな規則を取り決めることも、すべて想定上為し得ないと結論される。」「意味盲は実践盲であり、規範盲にほかならない」326

 

「規則のパラドクスが明らかにした側面は、規範性の成り立ちにとって事柄の半面にすぎない」326

「私があひるの姿を見ているそこに、うさぎの姿を見る他者が現れるとき、私ははじめて私がそれをあひるとして見ていることを、すなわち私がそれに与えている意味を、自覚する。そうして私は、相手の見ているうさぎとしての意味を理解しようとし、また、私の見ているあひるとしての意味を理解してもらおうと、語り、問い、答え、耳を傾ける。」

→他者は新たな意味の発信源。なぜ他者が発信源たりうるか、そしてそれをなぜ私は理解しうるか、考察せねばならない。

 

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感想。

 意味を意味たらしめるものは何か。

 前半では規則のパラドクス、随伴説批判を通して、意味とは使用の規制から生まれる規則である、という点が述べられる。

 後半ではさらに、アスペクト=複相状態が意味にとって本質的な理由であることが証明される。

 

 しかし、アスペクトを生み出す要因が他者だというのはまだ不十分ではないだろうかとも思える。

 この本を読みながら何度も思ったことがある。それは「変身する過去世界」315に対しての疑問、つまり「時間性」である。

 過去のある時点ではアスペクトAだと思っていたことが現在アスペクトBだと気付いた。これはアスペクトAだった過去が変身していない限り、つまり覚えている限り、見間違いだった、意味の誤解だったということは容易に考える想定ではないだろうか。つまり過去の私もまた、現在の私とは違う、異なる意味秩序を持つ<他者>となりうるのではないだろうか。

 もし複相状態が心の起源であるならば、一人で生きていたとしても複相状態にはなりえる、ということになるだろう。新しい意味づけを学んだ瞬間に過去の意味づけを忘れるということがなければ、複相状態にはなりえるように思われる。

 もう一つ。教育の部分で。赤ちゃんは言語を持たない。感覚と知覚の世界のみを生きている、としよう。そこから様々な言葉を教えられていく。

 「本」という言葉を知らない状態と「本」という言葉を知っている状態は何が違うか。それは「本」という言葉に示される規則を知っているか否かである。これは、単相状態ではない、のではないだろうか。「本」というたった一つの言葉を覚えた段階で、その規則と、そうでないものという規則とを、同時に学ぶことにはならないだろうか。ここでもう一つ、「ペン」という言葉と規則を学んだとする。本のことを「ペン」と呼ぶのは、間違いである。彼はそれを認識するのではないだろうか。彼は見間違いをする。本を学んだ瞬間、本とそうでないものを学ぶことになるからである。本だと思ったらそうじゃなかった、まではわかる。本だと思ったら無意味なものに変身した、とは思わない。記憶があるからである。

 故に意味の本質に必要なのは、現在の私の意味秩序とは異なる意味秩序、つまりアスペクト的体験である、というところまでは賛同する。しかし他者とはそのためのいち契機でしかないのではないか。過去の私でもいい。そして記憶する能力もまた、本質的である。

 アスペクト盲は意味盲、規範盲、実践盲である。よってアスペクトが意味の本質。アスペクトは他者との差異により。よって他者が意味の本質。そして心の本質。いや、でもこの意味ってのは、眺望における意味ではないよなぁ。私と過去の私の差異が、相貌の契機になるだろうか。でもあひるーうさぎはわざわざ他者を出さなくてもいい気もする。

 

 子供で思い出したけど、子供の時ってやたら「これ何?」って聞くよね。名前を、言葉を知らないのに、無名のものとしてそれを認識しているわけだ。もちろんそれは知覚的認識であって、意味を見て取っている訳ではない。それがどういう状況でそう呼ばれ、またどのように使われるかなんて知らないわけだから。

 

 いや、そうでもないかもしれない。よくわからなくなってきた。

 私の考えたいテーマは、価値について、である。価値とは何か、ということを考える上で意味の構造を知っていることは重要だろう。また価値観の違う他者といかに理解し合えるかということも。そしてその中でいかにより良い価値を模索できるかも、考えていければと思っている。

 価値が意味の中に内包されるのであれば、他者とは私とは異なる価値秩序に他ならないわけで、かつそんな他者のおかげで私の価値秩序も生まれている、ということになる。一つの対象に対してどんな価値を抱くかはまさに人それぞれであり、複相状態になりうるからである。

 しかし価値とは、規則だろうか。価値とは、意味に何かプラスαされたもののようにも思える。そこには私の快不快原理が働く。また人は意味を求める。意味そのものが価値であることもある。

 んーしかしそれについてもまだ、画素数は荒いと言わざるを得ない。

 

 この本が、私が本当に知りたいことに貢献してくれるだろうか。まずはそこから。

 

 

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