【雑記】

自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ

「私と他者と、その関係:哲学と日記」

 いろんな問いが自分の中に渦巻く。とても全てを解決することもできない。だから、まず問うべきは、最も本質的な問いとは何か、ということである。では本質的とはどういうことか。

 まず誰にとって、という点が挙げられるだろう。それは社会にとってか、他者にとってか、私にとってか。私というものが一切の根本にある、という独我論的立場をとるのであれば、私にとってだろう。私にとってもっとも本質的な問いとは何か。

 そしてそれは価値についてである。それを解決することで私の現在の人生がよりよくなるようなそんな問い。それは人間に対する問いである。人間の何に関する問いだろうか。それは他者との関係の中にある自己の価値に関する問いである。自己の存在意義に関する問い。自己の自己に対する価値への問い。

 「肉体を殺せても魂を殺せぬものどもを恐れるな」という意味の、聖書の言葉がある。まさに私にとっては他者は、私の魂を殺しうるものである。では私の魂=心とは何か、またそれはなぜ他者の心によって、存在の危機に瀕するのだろうか。

 自分の信じるものを強く持つことはその外側にいるものを排除することになる。だろうか。違うだろう。私はそういう狭い人間にはなりたくない。

 つまりこう言える。他者を深く理解すること、そして自己を深く理解すること。もしくは他者を深く了解させることで何か歪んだ意味づけから救えること、もしくは自己の歪んだ意味づけを修正すること。そしてそれが可能な関係の条件。これが私にとって最も本質的な、意義ある問いである。社会や、世界や、思想とか、そういうものには興味はない。私は目の前のまさにそこにいる一人の人間との関係を、そして救いを探求したい。

 しかし、仕組みというものが人間を不幸にしているという側面もあるだろう。私はこういう視点を今まであまり持てなかった。だからこういう視点もやはり、必要ではあるだろう。例えば、社会とは結局勝ち組が上に行く、資本主義は人間の価値観を支配している、という実感などは、個々の人間の生き方を大きく決めていく。これは社会という大きなものだけに限らない。小さなコミュニティ、例えば組織に関する制度についても同様である。集団に関する議論。

 しかしあまり話を広げてもよくないし、集団に関する制度や仕組みの話は、現時点で私はそれに関わるような経験を持てない。経験なき思考は思弁であり机上の空論である。故に今私が、少なくとも今年度中にある程度の見切りをつけたいのはこういう問題である。

 

・私とは

・他者とは

・私と他者との関係とは

 

 私とは、ということを、自然科学的に考えたいわけではない。特に私にとってこういう問題が浮き彫りになるのは、自分の言っていることは本当に正しいのか、とか、自分はここにいていいのか、これやってもいいのか、という、自分の行為や発言の価値の問題である。

 また他者に関しては、この人の言ってることや行動は価値を感じないけど、もしくは嘘をついているように見えるけど、なんでだろう、とか、この人は本当は何を考えているのだろう、とか、この人は辛そうだけどどうすれば変えられるのか、とか。

 関係に関しては、より良い関係とは何か、である。それはお互いがよりよく変わって行くための関係であり、もしくは居心地がいいという居場所感覚のある関係である。しかしでは、この条件とは何か。

 これらは全て、意味や価値に関する問いである。そして意味を考える上でウィトゲンシュタインが役に立った。もしくは言語哲学が、記号哲学が役に立つかもしれない。

よって・・・

 

・私とは

・他者とは

・私と他者との関係とは

→これらを意味と価値の側面から考える

 

 ということになるだろう。

 そのためにはまず、価値とは何かを考えねばならない。そして価値を与え合う存在としての私と他者との関係についても考えなければ。

 竹田青嗣の欲望論=現象学野矢茂樹の他者論=記号学、もっとたくさん本を読まないといけないだろう。また私の問いが最も重要だと思われるような日常的体験も、もっともっと、記述しなければならない。哲学は生活から始まる。抽象的な話ばかりしてはダメだ。そういう意味では、私は哲学を書くより、日記を書かねばならない。

 

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